旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

「ハルビン」

 京都の映画館MOVIX京都で、ウ・ミンホ監督の「ハルビン」を鑑賞。MOVIX京都は新京極商店街という、大きな商店街の中にある映画館だ。商店街のHPによると、明治新政府の上知令によって、寺社領が一般に供されたところに商店街ができたという。現在も7つの寺と1つの神社のある、珍しい商店街だ。

 明治期には芝居小屋、寄席などの劇場が集まり、エンターテイメントストリートとして発展してきたという。現在も映画館のほか、「ろっくんプラザ」という屋外型イベントスペースがあり、地域の伝統行事や地元のアーティストによる様々なイベントが行われている。私が行ったのは平日の昼間でイベントは行われていなかったが、ススメやハト、カラスが水路で猛暑をしのいでいた。

 

 さて、「ハルビン」は独立運動家の安重根が、1909年にハルビン駅で韓国統監府の初代統監・伊藤博文を暗殺した事件を題材としている。安重根を人気俳優のヒョンビン、伊藤博文を日本の俳優リリー・フランキーが演じたことで話題になった。リリー・フランキーは是枝裕和監督の「万引き家族」に出演したことなどで、韓国でも人気があるそうだ。

 安重根が伊藤博文を暗殺し、処刑されたことは史実なので結末がどうなるかは初めからわかっている。映画はしかし、安重根を民族的英雄として描くのではなく、様々な葛藤や弱さを持つ個人として描いている。その上で現在の不安定な社会状況と重ね合わせ、観客一人一人に自ら考え行動することを促すような終わり方をする。

 この映画が韓国で公開されたのは2024年12月24日。この3週間前に尹錫悦大統領が非常戒厳を宣布している(翌日、国会で解除要求決議案が可決され、非常戒厳は解除)これに危機感を抱いた市民たちが大統領の弾劾と罷免を求め、デモを行っていたさなかのことだ。映画の中に、伊藤博文の「この国の民は国難の度に変な力を発揮する」というセリフがあるが、まさに「力」が発揮されていたわけである。

 ところで個人的には、この映画が日本全国のシネコンで公開されていることに、ちょっと感慨を覚えている。これまで植民地時代を舞台にした韓国映画が日本で公開されると、実態はどうあれ「反日映画」などと攻撃されることが多かった。

 例えば、2018年2月に日本公開された、イ・ジュンイク監督の「金子文子と朴烈」は当初、映画祭ならともかく、一般の劇場での公開は難しいと言われていた。皇太子(のちの昭和天皇)の暗殺を企てた二人が主人公だからだ。だが、実際に公開してみると映画は好評で、ミニシアターを中心に上映館が次々と増え、私の住む福岡のKBCシネマでも上映期間を延長して公開していた。

 関係者のご苦労ご尽力もあったかと思うが、伊藤博文暗殺事件を題材とした「ハルビン」が堂々と公開されていることを、好ましく思っている。

「KIDDO キドー」

 アップリンク吉祥寺で、サラ・ドヴィンガー監督の「KIDDO キドー」を鑑賞。Kiddoというのはスラングで、年少者に対してカジュアルに呼びかける時に使うようである。作中では「お嬢ちゃん」と訳されている。主人公・ルーの母親が、娘に向かって呼びかける時の言葉だ。

 ルーは児童養護施設で生活する、11歳の少女である。母親のカリーナはハリウッド女優で、彼女が幼い頃に去っていった。以来何年も音信不通だったが、その母から突然施設に連絡が入り、ルーに会いに来るという。ルーは母親との再会に胸を躍らせるが、約束の時間に大幅に遅れて現れたカリーナは、世間一般の思い描く母親像からは大きくはずれた人物だった。

 カリーナは施設に無断でルーをドライブに連れ出し、故郷のポーランドへと向かう。大金を手に入れ、ルーと一緒に暮らすのだという。ルーはためらいながらも、ずっと会いたかった母親とのロングドライブに出るが、それは施設側から見れば児童誘拐だった。カリーナは自分たちのことを「ボニーとクライド」になぞらえ、無軌道にポーランドを目指す。

 カリーナは母親というより、対等な友人のようにルーに接する。ルーも、クールで型破りなカリーナにあこがれのような感情を抱く。二人は古いモノクロ映画を観て夜ふかししたり、他人のバースデーケーキをお行儀悪く盗み食いしたり、果ては無銭飲食までやってのける。カリーナが待機している車にルーが飛び乗り、走り去るシーンはボニーとクライドのようにかっこよく爽快だ。だが、大きく違うのは二人は母と娘、しかもルーはまだ11歳の子どもであることだ。

 カリーナとのドライブは、バカンスのように楽しい。だが、バカンスが楽しいのはそれが非日常であるからだ。もし、バカンスが日常になってしまったら? そもそもカリーナはなぜ幼いルーを置いていったのだろう?なぜ何年も音信不通だったのか。

 二人のドライブの終わりはほろ苦い。カリーナは「普通の母親」にはなれなかった。だが、それは親子関係の破綻を意味するのではない。たくさんの愛情を胸に、ひとつ大人になったルーの表情は輝いている。

出雲紀行17. [祭神論争がもたらしたもの]

 勅裁翌年の1882(明治15)年1月、明治新政府は次のような内務省達書を公布した。

 「自今神官ハ教導職ノ兼補ヲ廃シ葬儀ニ関係セサルモノトス」(内務省達乙第七号)

 政府は神官が教導職を兼ねることを廃止し、葬祭に関わることを禁止した。これは祭祀と宗教を切り離し、神道を非宗教化することを意味していた。2年後の1884(明治17)年には神道事務局が廃止され、教導職そのものも廃止された。

 これは明治初年から浄土真宗本願寺派の島地黙雷(しまじもくらい)を中心に、仏教界が唱えてきた「神道非宗教論」に基づく措置だった。この年3月、真宗大谷派の僧侶で権大中教正・渥美契縁(かいえん)が「国家ノ大典と宗教トノ区域ヲ明白ニ別析」することを求める建白を、内務卿・松方正義に提出していたのだ。神道は「国家ノ大典ニシテ宗教ニ非ザル」のに、神官が葬儀を執り行うなど、宗教としての役割も果たしていると批判した。

 明治新政府は1872(明治5)年以降、仏教の僧侶にも教導職を担わせてきたが、神道を仏教より優位に置く教導体制に仏教界は不満を抱いてきた。とりわけヨーロッパを視察した経験があり、西洋への造詣が深い黙雷は、早くから政教分離や信教の自由を主張していた。

 政府はこの建白を受け入れ、政教分離に舵を切る。そこには祭神論争のような紛議が再び勃発し、天皇の威光に傷をつけることを未然に防ぐ意図も含まれていた。

 神道界はこれに反発したが、官幣社や国幣社で葬祭が禁じられ、神社は宗教とは異なる、祭祀を司る機関として位置づけられていった。一方で教導職を辞すれば、国家の官吏として身分が保障されたので、多くの神官がこれに従わざるを得なかった。それに背を向け信教の道を選ぶのであれば、神社神道ではない一宗教団体、つまり教派神道として独立するほかなかった。

 これ以降、神社の祭祀と天皇が行う皇室祭祀が一体化し、「国家神道」が確立されていく。

 

 出雲派の雄であった千家尊福(せんげたかとみ)は、天皇の勅裁によって祭神論争に決着をつけることに反対していたと伝えられる。1882(明治15)年3月、尊福は出雲国造の地位を弟の尊紀(たかのり)に譲って、自らは「出雲大社教」を立ち上げる。あくまで宗教家として、人々にオオクニヌシの神徳を伝えてゆくことを選んだのだ。大社教東京分祠を創設し、全国への布教を開始する。だが、その途上の1888(明治21)年、神戸から東京へ向かう汽車の中で伊藤博文と知り合う。

 この伊藤との出会いがきっかけで、尊福は政界入りする。同年6月に元老院議官になったのを皮切りに、1892(明治25)年には埼玉県知事に就任する。その後、静岡県知事、東京府知事を経て、1908(明治41)年には司法大臣にまで昇りつめる。

 政治の世界に身を投じたのは、世の先導者となるためだった。その契機が、第一章第一条で「大日本帝国憲法ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定める大日本帝国憲法を制定した伊藤であるのは、何とも皮肉なめぐりあわせではないだろうか。

 ただ、1911(明治44)年に尊紀が亡くなると尊福は大社教総裁になり、再び全国への巡教を開始する。以後、1918(大正7)年1月3日に急逝する直前まで、精力的に列島を回った。倒れたのは元日で、年頭の儀式を捧げ家族と楽しく過ごした後、突然の心臓発作で眠るように息を引き取った。東京で告別式を行い、棺は汽車で出雲へと向かったが、駅々にその死を悼む人たちが詰めかけ別れを惜しんだ。出雲大社最寄りの大社駅にいたっては、万を超える人が出迎えたという。出雲国造はかつて「生き神」として人々の崇敬を集めてきたが、あたかも天皇の巡幸を見るかのようではないか。

 

出雲大社の大鳥居をくぐって、すぐ右手に立っている千家尊福の像

 

 

[参考文献]

原武史「日本政治思想史」(放送大学教育振興会)

原武史「<出雲>という思想」(講談社学術文庫)

岡本雅亨「千家尊福と出雲信仰」(ちくま新書)

島薗進「国家神道と日本人」(岩波新書)

藤田大誠「近代国学の研究」(弘文堂)

千家尊統「出雲大社」(学生社)

出雲紀行16. [天皇による勅裁]

 結局、祭神論争に終止符を打ったのは、天皇による勅裁だった。神道界の紛糾を憂慮した政府が事態の収拾に乗り出したのだ。まず1880(明治13)年12月、内務卿松方正義が、伊勢神宮小宮司で神道副管長の田中頼庸(よりつね)に神道会議の開催を指示した。これを受け、1881(明治14)年2月3日から16日にかけ神道大会議が開催されるが、これは前年9月に桜井能監(よしかた)の調停により開催が決定した大会議とは異なる内容だった。

 元老院議官の岩下方平(まさひら)が議長を務めるこの大会議で、オオクニヌシの合祀が協議されることはなかった。代わりに1月31日、神道事務局は太政大臣三条実美に、祭神について天皇の勅裁を仰ぐ上奏を行っていた。2月23日、三条は勅裁を発表する。以下の内容だった。

 

 一、宮中ニ 被斎祭所ノ神霊遥拝奉仕可致事、

(一、宮中に祀られる神霊に遥拝奉仕すること)

(中略)

 

 宮中ニ被 斎祭所ノ神霊、

天神地祇

賢所(かしこどころ)

歴代皇霊

(宮中に祀られる神霊は、天神地祇、賢所、歴代皇霊)

 

 天神地祇とは天つ神と国つ神、つまり全ての神々を指す。賢所にはアマテラスの御霊代とされる神鏡が祀られている。歴代皇霊とは歴代の天皇の御霊のことだ。

 祭神論争では神道事務局の神殿に祀る祭神として、伊勢派は造化三神とアマテラス、出雲派はそれにオオクニヌシを加えることを求めてきた。だが、勅裁は伊勢派が主張してきた造化三神も、出雲派が主張してきたオオクニヌシも排する形で、「天神地祇、賢所(神鏡)、歴代皇霊を祀る宮中三殿に遥拝すること」と決めたのだ。

 勅裁に先立つ2月22日、神道事務局はそれまでの祭神である造化三神とアマテラスを私祭とする、昇神祭を執り行っている。その上で改めて、勅裁により定められた天神地祇、賢所、歴代皇霊を祭神として奉仕することとした。こうして祭神論争は終結した。

 

 この勅裁について、伊勢派の常世長胤(とこよながたね)は後年「神教組織物語」で次のように振り返っている。

 「此勅裁ハ、優劣ヲ附玉ハス、公正ノ勅裁ナレト、神宮ハ祭神ノ賢所ト同キヲ以て丸勝ヲシメタリ」、勅裁は伊勢派、出雲派のどちらにもくみしない公正なものであるが、賢所に祀られているのはアマテラスの御霊代であるので、総じて伊勢派の勝利であると長胤は解釈しているのだ。

 一方で、長胤はこのようにも書いている。

 「今勅裁ヲ仰キテ、事務局ノ祭神ハ賢所ヲ遥拝セヨト仰出サレタレハ、祭主ヲ始メ神宮教院ノ祭神ハ、造化三神ヲ神上シテ天照大御神一神ニセン事ヲ云出テ、未タ舌ノ根モ乾ヌニ、忽ニ一神ニ改メ、田中モ同意シテ其儀式ヲ行ヒタルハ、怪シキ事ノ限リニテ辱ヲ忘レタルニヤ」

 勅裁が出て賢所を遥拝することが決まるや、造化三神を神上してアマテラス一神に改め、小宮司の田中頼庸までもが諾々と神事を行っていることを「恥知らず」と激しい言葉で非難しているのだ。

 オオクニヌシの合祀がかなわず、アマテラス一神のみが突出する形で祀られるようになったことから、祭神論争は事実上出雲派の敗退と解されている。だが、伊勢派も諸手を挙げてこれを歓迎したわけではなかった。

 

[参考文献]

原武史「日本政治思想史」(放送大学教育振興会)

原武史「<出雲>という思想」(講談社学術文庫)

岡本雅亨「千家尊福と出雲信仰」(ちくま新書)

藤井貞文「明治国学発生史の研究」(吉川弘文館)

藤田大誠「近代国学の研究」(弘文堂)

出雲紀行15. [伊勢派の反攻]

 本居国学の継承者である本居豊頴(とよかい)が書いた「神道事務局保護方之檄」への反響は大きかった。神道事務局や、教部省の廃止に伴い設置された内務省社寺局には、オオクニヌシの合祀に関する投書が全国から送られてくるようになり、その数、約13万通にも及んだ。

 勢いを得た千家尊福(たかとみ)は本居豊頴、さらに平田篤胤の養子で篤胤亡き後の一門を統率する平田銕胤(かねたね)らと連署で、1880(明治13)年7月、各地の教導職に対し同志会議を開くことを呼びかけた。場所は豊頴が局長を務める東京神道事務分局だ。驚いた神道事務局は豊頴を分局長の職から罷免する。だが、これには東京府下の神官たちが一斉に抗議の声を上げた。神道事務局は豊頴を復職させざるを得なくなる。

 同志会議の開催を阻止したい神道事務局は、「豊頴の檄文には事実と相違がある」として、地方分局に同志会議に出席しないよう通達を送った。対抗して尊福らは、会議の趣旨を説明し出席を求める書簡を送り、次いで出雲大社及び大社教院の教導職らに上京を促した。かくて続々と有志が東京に集まり、論争は激化の一途をたどっていった。

 

 ここに来て、事態の収拾を図ろうとする動きが出てくる。伊勢神宮祭主で、皇族である久邇宮朝彦(くにのみやあさひこ)のもとに、ことの解決を願う請願が送られてくるようになったのだ。久邇宮は内務省社寺局長の桜井能監(よしかた)に調停を内命した。

 内命を受けた桜井は伊勢・出雲両派の間に入り、調停案を作成した。「表名合祀」という語は用いず、従来のアマテラスと造化三神のほか、新たにニニギ、イザナギ、イザナミ、そしてオオクニヌシを神殿に祭祀することを提案したのだ。この四神は銕胤の主張、すなわち平田神学に添うものであった。尊福は有志と議論した末、調停案に概ね同意する。桜井は神道事務局に出向き、大教正の鴻雪爪(おおとりせっそう)らにも調停を打診し、説得することでこれを了承させた。

 こうして1880(明治13)年9月、神道事務局にて尊福らと雪爪らの会見が行われ、調停が成立したことが確認された。その上で、11月に神道事務局の改革や、オオクニヌシの合祀について協議する大会議の開催が決定した。これにより、事態は一応の妥結を得たかに見えた。

 だが、ここで伊勢派が反攻に打って出る。10月、神道扶桑教会長で権正教正の宍野半(なかば)が、「教義討論門開キ方上申」を内務卿の松方正義に提出したのだ。宍野は、尊福が自分の信奉するオオクニヌシを幽冥界の主宰神として顕幽を論じることは、天皇に相対する行為であると非難した。また、尊福がオオクニヌシの表名合祀を求めるがために神道界が分裂していると指摘し、扶桑・出雲の両教会の信徒の前で討論することを要求した。大会議ではなく、公開討論をせよということだ。

 翌日には権中教正の芳村正秉(まさもち)ほか13名が連名で、同趣旨の請願書を松方に上申した。以降、伊勢派による聴訟運動が拡大していく。

 

 彼ら伊勢派は、神道教導職が奉仕する祭神は、既に造化三神とアマテラスに決定したのであって、尊福一人の建議をもってこれを変更すべきではない。尊福が説くようなオオクニヌシが幽冥界を主宰する神であるという証拠は、正史や実録には見当たらない。また、オオクニヌシが人々の死後の霊魂を審判するのであれば、歴代の天皇もその支配下に入ることになると主張した。すなわち、「不敬」であると。

 折しもこの頃、国会開設を求める自由民権運動が全国で高まりを見せていた。伊勢派は各地を巡教してオオクニヌシの神徳を説く尊福を、辻々で遊説する民権運動の活動家と重ね、国体を紊乱するものとして攻撃した。ついには尊福を暗殺するとの風聞まで流れ始めた。神学上の論争であったはずの祭神論争は、もはや論争の域を超え混迷の度を深めていった。

 

[参考文献]

原武史「日本政治思想史」(放送大学教育振興会)

原武史「<出雲>という思想」(講談社学術文庫)

岡本雅亨「千家尊福と出雲信仰」(ちくま新書)

藤井貞文「明治国学発生史の研究」(吉川弘文館)

神道文化會「明治維新 神道百年史」第五巻

出雲紀行14. [本居豊頴の檄]

 神道事務局の神殿に造化三神とアマテラスの他、オオクニヌシを合祀するよう求めるも、田中頼庸の反対により叶わなかった千家尊福(たかとみ)であるが、それであきらめたわけではなかった。1878(明治11)年3月、神道事務局内に新しい神殿を造営することが決まると、5月と7月に再び建議書を提出した。

 尊福は、顕事を司る天皇と幽事を治めるオオクニヌシ、すなわち生きている間と死後と、二つの世で頼るべきものを民に示して、安心立命の地を与えることが布教の急務であると説いた。だが、評議で却下されてしまう。

 潮目が変わったのは、1880(明治13)年のことだった。神道事務局の神殿の落成と遷座祭執行にあたり、1月、尊福は神道事務局詰の大教正ら5人に宛てて建議書を提出した。この中で尊福はオオクニヌシの合祀について、公論にかけて決めるよう訴えている。これに賛同者が現れたのだ。事務局詰の権大教正で、本居宣長のひ孫・本居豊頴(とよかい)と、大教正の平山省斎だった。二人は、尊福と頼庸を招致して協議することを提案する。

 東京府神道事務局分局の局長を務めていた豊頴は、副長らと話し合いの上、3月に連名での意見書を神道事務局に提出した。意見書はオオクニヌシの功業は神典を読めば明白であり、新しい神殿に表名合祀して天つ神の意志に沿うべきという内容だった。オオクニヌシ合祀論に対する、東京分局の見解を示したといえよう。本居国学の継承者である豊頴の影響力は大きく、これを機に合祀に賛同する声は続々と広がっていった。

 

 1880(明治13)年4月、尊福と頼庸は神道事務局で会談を行った。尊福は頼庸に意見書を手渡し回答を求めたが、頼庸は明日回答するとして、その場では答えなかった。翌日になると、今度は他の教導職の意見を聞いて決めることにしたと、前言をひるがえしてきた。これに憤慨した尊福が追及すると、原則的には合祀に賛成であるが、異議もあるだろうから他のものの意見も聞くべきだとした。ところがこの4日後、神殿の遷座祭が行われ、頼庸が斎主を務める中、造化三神とアマテラスが祀られてしまったのである。

 尊福は頼庸ら伊勢派が神道事務局の中枢を担っている以上、オオクニヌシの合祀は不可能だと考えた。神道事務局そのものを改革しようと意見書を提出するが、それもまた容易ではなかった。だが、この時本居豊頴も連名で同様の意見書を提出する。さらに6月、豊頴は「神道事務局保護方之檄」と題する檄文を有志とともに作成し、全国の教導職に配布した。

 檄文の中で豊頴は、神道事務局の本局を新たに建築すること、本局詰員の改選を行うことなどを要求した。これは神道事務局が、東京の神宮司庁出張所の敷地内に置かれており、神宮すなわち田中頼庸の影響力の及ぶところが大きかったためである。豊頴は「知ラサル者ハ、蓋シ神道事務局ヲ以テ神宮司庁内ノ一局ト誤認スルナル可シ」、つまり神道事務局が神宮司庁の一部になり果てていると痛烈に批判している。

 ことは建物だけの問題ではなかった。檄文によると、新しい神殿の名称は「皇大神宮」とされ、祭祀ではアマテラスの名前が唱えられて、神宮の神誠五ヶ条なるものが朗誦された。豊頴に言わせれば、神道事務局が神宮の店子状態であるから、このようなことが起きるのである。

 また、千家尊福が訴えるオオクニヌシの合祀以外にも異論は多数あり、神道界は依然四分五裂の状態にあった。にもかかわらず、新たに落成した神殿が一派神道のようになってしまっているのは憂慮すべきことだった。この分裂状態から神道を立て直すためには、世の公論に従ってオオクニヌシを表名合祀すべきであると、豊頴は説いたのだ。

 

[参考文献]

原武史「<出雲>という思想」(講談社学術文庫)

岡本雅亨「千家尊福と出雲信仰」(ちくま新書)

藤井貞文「明治国学発生史の研究」(吉川弘文館)

出雲紀行13. [浦田長民と田中頼庸]

 浦田長民(ながたみ)は明治初年の神宮改革(出雲紀行5. [神道国教化と伊勢神宮] - 旅と映画)の立役者といってよいだろう。1868(慶応4)年7月、山田奉行所が廃止され度会府(わたらいふ)が置かれると、伊勢神宮内宮の権禰宜だった長民が、同府の御用掛に任命された。その翌月、長民は度会府に建言を上申している。建言には豊受宮(外宮)を大神宮(内宮)の宮域内に遷座し両宮の一本化を図ることや、祭主宮司の世襲制の廃止を求める内容が含まれていた。その後の神宮改革がそのように進んだことは既に書いた通りである。

 長民は1869(明治2)年4月に度会府の権判事となるが、翌年持病の神経痛のため辞任する。だが、1871(明治4)年8月、神祇官(省)に招聘され出仕し、神祇省の官吏となった。10月に太政官からの辞令を受け伊勢に帰着、神宮改革に着手した。その後、神祇省に代わり新たに設置された教部省の官職に就きつつ、1872(明治5)年7月より神宮小宮司を兼任した。

 官吏から神職へというコースは田中頼庸(よりつね)と共通する。だが、1874(明治7)年1月に頼庸が神宮大宮司に就任する際、長民は頼庸の人柄に難があり、学はあっても大宮司の任にふさわしくないことなどを理由に、これに反対している。頼庸が大宮司に選任されたのは、先代の大宮司・本荘宗秀の死に伴うものだが、小宮司である長民を大宮司に昇進させ、頼庸を小宮司に迎えるとの案もあったようである。だが、頼庸と同じ薩摩藩の出身である三島通庸の尽力により、頼庸は大宮司の座に就いた。長民としては複雑な胸中であったろう。

 

 田中頼庸と千家尊福(たかとみ)が意見を戦わせた神道会議から半年あまりが過ぎた1876(明治9)年8月、浦田長民は伊勢派の教義をまとめる「大道本義」を刊行した。

 この本の中で、長民は「かの幽界の大廷の若(ごと)きは則ち二有り」と述べた。第一の大廷は高天原であり、宇宙の中に無数にある幽界を統括しており、単に地球の幽界にのみ留まるものではない。第二の大廷は根底国である。そこはアマテラスの弟であるスサノオと、国産みの神であるイザナミが統治している。罪を犯した魂に刑を与えているが、その処置の際にはまず高天原の勅裁を仰いでいる。だから根底国、すなわち幽界も高天原の統括に属するというのだ。オオクニヌシが幽冥界を支配するのは、アマテラスに命じられたからとする、大国隆正の影響が感じられる。ともあれ、オオクニヌシよりアマテラスを優位に置くものであり、当然出雲派からは批判の声が上がった。

 ところが、神道文化會の「神道百年史」によると、「大道本義」は刊行からわずか3ヶ月後の11月、「『都合之儀有』りとして」「滅板に附された」という。(三木正太郎「神宮祠官の活動 ――浦田長民を中心とする――」)「滅板」とは聞きなれない言葉だが、現在でいう絶版のようなものだろうか。

 長民は「大道本義」下巻で、人の魂の死後の行方について説いていた。長民によると人の魂は死後に幽界に属し、幽界は各地の産土(うぶすな)神、すなわちその土地を守護する鎮守の宮にある。それを総括するのが出雲大社だという。そうであれば、必ずしも出雲派の教義を否定するものではなく、むしろ伊勢派にとって都合の悪いものといえる。

 長民は「大道本義」が滅板になって間もなく、1877(明治10)年12月に神宮小宮司を退任している。以後は田中頼庸が、教義の面でも伊勢神宮を引っ張ってゆくこととなった。

 

[参考文献]

原武史「日本政治思想史」(放送大学教育振興会)

原武史「<出雲>という思想」(講談社学術文庫)

神道文化會「明治維新 神道百年史」第五巻