旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

出雲紀行17. [祭神論争がもたらしたもの]

 勅裁翌年の1882(明治15)年1月、明治新政府は次のような内務省達書を公布した。

 「自今神官ハ教導職ノ兼補ヲ廃シ葬儀ニ関係セサルモノトス」(内務省達乙第七号)

 政府は神官が教導職を兼ねることを廃止し、葬祭に関わることを禁止した。これは祭祀と宗教を切り離し、神道を非宗教化することを意味していた。2年後の1884(明治17)年には神道事務局が廃止され、教導職そのものも廃止された。

 これは明治初年から浄土真宗本願寺派の島地黙雷(しまじもくらい)を中心に、仏教界が唱えてきた「神道非宗教論」に基づく措置だった。この年3月、真宗大谷派の僧侶で権大中教正・渥美契縁(かいえん)が「国家ノ大典と宗教トノ区域ヲ明白ニ別析」することを求める建白を、内務卿・松方正義に提出していたのだ。神道は「国家ノ大典ニシテ宗教ニ非ザル」のに、神官が葬儀を執り行うなど、宗教としての役割も果たしていると批判した。

 明治新政府は1872(明治5)年以降、仏教の僧侶にも教導職を担わせてきたが、神道を仏教より優位に置く教導体制に仏教界は不満を抱いてきた。とりわけヨーロッパを視察した経験があり、西洋への造詣が深い黙雷は、早くから政教分離や信教の自由を主張していた。

 政府はこの建白を受け入れ、政教分離に舵を切る。そこには祭神論争のような紛議が再び勃発し、天皇の威光に傷をつけることを未然に防ぐ意図も含まれていた。

 神道界はこれに反発したが、官幣社や国幣社で葬祭が禁じられ、神社は宗教とは異なる、祭祀を司る機関として位置づけられていった。一方で教導職を辞すれば、国家の官吏として身分が保障されたので、多くの神官がこれに従わざるを得なかった。それに背を向け信教の道を選ぶのであれば、神社神道ではない一宗教団体、つまり教派神道として独立するほかなかった。

 これ以降、神社の祭祀と天皇が行う皇室祭祀が一体化し、「国家神道」が確立されていく。

 

 出雲派の雄であった千家尊福(せんげたかとみ)は、天皇の勅裁によって祭神論争に決着をつけることに反対していたと伝えられる。1882(明治15)年3月、尊福は出雲国造の地位を弟の尊紀(たかのり)に譲って、自らは「出雲大社教」を立ち上げる。あくまで宗教家として、人々にオオクニヌシの神徳を伝えてゆくことを選んだのだ。大社教東京分祠を創設し、全国への布教を開始する。だが、その途上の1888(明治21)年、神戸から東京へ向かう汽車の中で伊藤博文と知り合う。

 この伊藤との出会いがきっかけで、尊福は政界入りする。同年6月に元老院議官になったのを皮切りに、1892(明治25)年には埼玉県知事に就任する。その後、静岡県知事、東京府知事を経て、1908(明治41)年には司法大臣にまで昇りつめる。

 政治の世界に身を投じたのは、世の先導者となるためだった。その契機が、第一章第一条で「大日本帝国憲法ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定める大日本帝国憲法を制定した伊藤であるのは、何とも皮肉なめぐりあわせではないだろうか。

 ただ、1911(明治44)年に尊紀が亡くなると尊福は大社教総裁になり、再び全国への巡教を開始する。以後、1918(大正7)年1月3日に急逝する直前まで、精力的に列島を回った。倒れたのは元日で、年頭の儀式を捧げ家族と楽しく過ごした後、突然の心臓発作で眠るように息を引き取った。東京で告別式を行い、棺は汽車で出雲へと向かったが、駅々にその死を悼む人たちが詰めかけ別れを惜しんだ。出雲大社最寄りの大社駅にいたっては、万を超える人が出迎えたという。出雲国造はかつて「生き神」として人々の崇敬を集めてきたが、あたかも天皇の巡幸を見るかのようではないか。

 

出雲大社の大鳥居をくぐって、すぐ右手に立っている千家尊福の像

 

 

[参考文献]

原武史「日本政治思想史」(放送大学教育振興会)

原武史「<出雲>という思想」(講談社学術文庫)

岡本雅亨「千家尊福と出雲信仰」(ちくま新書)

島薗進「国家神道と日本人」(岩波新書)

藤田大誠「近代国学の研究」(弘文堂)

千家尊統「出雲大社」(学生社)

出雲紀行16. [天皇による勅裁]

 結局、祭神論争に終止符を打ったのは、天皇による勅裁だった。神道界の紛糾を憂慮した政府が事態の収拾に乗り出したのだ。まず1880(明治13)年12月、内務卿松方正義が、伊勢神宮小宮司で神道副管長の田中頼庸(よりつね)に神道会議の開催を指示した。これを受け、1881(明治14)年2月3日から16日にかけ神道大会議が開催されるが、これは前年9月に桜井能監(よしかた)の調停により開催が決定した大会議とは異なる内容だった。

 元老院議官の岩下方平(まさひら)が議長を務めるこの大会議で、オオクニヌシの合祀が協議されることはなかった。代わりに1月31日、神道事務局は太政大臣三条実美に、祭神について天皇の勅裁を仰ぐ上奏を行っていた。2月23日、三条は勅裁を発表する。以下の内容だった。

 

 一、宮中ニ 被斎祭所ノ神霊遥拝奉仕可致事、

(一、宮中に祀られる神霊に遥拝奉仕すること)

(中略)

 

 宮中ニ被 斎祭所ノ神霊、

天神地祇

賢所(かしこどころ)

歴代皇霊

(宮中に祀られる神霊は、天神地祇、賢所、歴代皇霊)

 

 天神地祇とは天つ神と国つ神、つまり全ての神々を指す。賢所にはアマテラスの御霊代とされる神鏡が祀られている。歴代皇霊とは歴代の天皇の御霊のことだ。

 祭神論争では神道事務局の神殿に祀る祭神として、伊勢派は造化三神とアマテラス、出雲派はそれにオオクニヌシを加えることを求めてきた。だが、勅裁は伊勢派が主張してきた造化三神も、出雲派が主張してきたオオクニヌシも排する形で、「天神地祇、賢所(神鏡)、歴代皇霊を祀る宮中三殿に遥拝すること」と決めたのだ。

 勅裁に先立つ2月22日、神道事務局はそれまでの祭神である造化三神とアマテラスを私祭とする、昇神祭を執り行っている。その上で改めて、勅裁により定められた天神地祇、賢所、歴代皇霊を祭神として奉仕することとした。こうして祭神論争は終結した。

 

 この勅裁について、伊勢派の常世長胤(とこよながたね)は後年「神教組織物語」で次のように振り返っている。

 「此勅裁ハ、優劣ヲ附玉ハス、公正ノ勅裁ナレト、神宮ハ祭神ノ賢所ト同キヲ以て丸勝ヲシメタリ」、勅裁は伊勢派、出雲派のどちらにもくみしない公正なものであるが、賢所に祀られているのはアマテラスの御霊代であるので、総じて伊勢派の勝利であると長胤は解釈しているのだ。

 一方で、長胤はこのようにも書いている。

 「今勅裁ヲ仰キテ、事務局ノ祭神ハ賢所ヲ遥拝セヨト仰出サレタレハ、祭主ヲ始メ神宮教院ノ祭神ハ、造化三神ヲ神上シテ天照大御神一神ニセン事ヲ云出テ、未タ舌ノ根モ乾ヌニ、忽ニ一神ニ改メ、田中モ同意シテ其儀式ヲ行ヒタルハ、怪シキ事ノ限リニテ辱ヲ忘レタルニヤ」

 勅裁が出て賢所を遥拝することが決まるや、造化三神を神上してアマテラス一神に改め、小宮司の田中頼庸までもが諾々と神事を行っていることを「恥知らず」と激しい言葉で非難しているのだ。

 オオクニヌシの合祀がかなわず、アマテラス一神のみが突出する形で祀られるようになったことから、祭神論争は事実上出雲派の敗退と解されている。だが、伊勢派も諸手を挙げてこれを歓迎したわけではなかった。

 

[参考文献]

原武史「日本政治思想史」(放送大学教育振興会)

原武史「<出雲>という思想」(講談社学術文庫)

岡本雅亨「千家尊福と出雲信仰」(ちくま新書)

藤井貞文「明治国学発生史の研究」(吉川弘文館)

藤田大誠「近代国学の研究」(弘文堂)

出雲紀行15. [伊勢派の反攻]

 本居国学の継承者である本居豊頴(とよかい)が書いた「神道事務局保護方之檄」への反響は大きかった。神道事務局や、教部省の廃止に伴い設置された内務省社寺局には、オオクニヌシの合祀に関する投書が全国から送られてくるようになり、その数、約13万通にも及んだ。

 勢いを得た千家尊福(たかとみ)は本居豊頴、さらに平田篤胤の養子で篤胤亡き後の一門を統率する平田銕胤(かねたね)らと連署で、1880(明治13)年7月、各地の教導職に対し同志会議を開くことを呼びかけた。場所は豊頴が局長を務める東京神道事務分局だ。驚いた神道事務局は豊頴を分局長の職から罷免する。だが、これには東京府下の神官たちが一斉に抗議の声を上げた。神道事務局は豊頴を復職させざるを得なくなる。

 同志会議の開催を阻止したい神道事務局は、「豊頴の檄文には事実と相違がある」として、地方分局に同志会議に出席しないよう通達を送った。対抗して尊福らは、会議の趣旨を説明し出席を求める書簡を送り、次いで出雲大社及び大社教院の教導職らに上京を促した。かくて続々と有志が東京に集まり、論争は激化の一途をたどっていった。

 

 ここに来て、事態の収拾を図ろうとする動きが出てくる。伊勢神宮祭主で、皇族である久邇宮朝彦(くにのみやあさひこ)のもとに、ことの解決を願う請願が送られてくるようになったのだ。久邇宮は内務省社寺局長の桜井能監(よしかた)に調停を内命した。

 内命を受けた桜井は伊勢・出雲両派の間に入り、調停案を作成した。「表名合祀」という語は用いず、従来のアマテラスと造化三神のほか、新たにニニギ、イザナギ、イザナミ、そしてオオクニヌシを神殿に祭祀することを提案したのだ。この四神は銕胤の主張、すなわち平田神学に添うものであった。尊福は有志と議論した末、調停案に概ね同意する。桜井は神道事務局に出向き、大教正の鴻雪爪(おおとりせっそう)らにも調停を打診し、説得することでこれを了承させた。

 こうして1880(明治13)年9月、神道事務局にて尊福らと雪爪らの会見が行われ、調停が成立したことが確認された。その上で、11月に神道事務局の改革や、オオクニヌシの合祀について協議する大会議の開催が決定した。これにより、事態は一応の妥結を得たかに見えた。

 だが、ここで伊勢派が反攻に打って出る。10月、神道扶桑教会長で権正教正の宍野半(なかば)が、「教義討論門開キ方上申」を内務卿の松方正義に提出したのだ。宍野は、尊福が自分の信奉するオオクニヌシを幽冥界の主宰神として顕幽を論じることは、天皇に相対する行為であると非難した。また、尊福がオオクニヌシの表名合祀を求めるがために神道界が分裂していると指摘し、扶桑・出雲の両教会の信徒の前で討論することを要求した。大会議ではなく、公開討論をせよということだ。

 翌日には権中教正の芳村正秉(まさもち)ほか13名が連名で、同趣旨の請願書を松方に上申した。以降、伊勢派による聴訟運動が拡大していく。

 

 彼ら伊勢派は、神道教導職が奉仕する祭神は、既に造化三神とアマテラスに決定したのであって、尊福一人の建議をもってこれを変更すべきではない。尊福が説くようなオオクニヌシが幽冥界を主宰する神であるという証拠は、正史や実録には見当たらない。また、オオクニヌシが人々の死後の霊魂を審判するのであれば、歴代の天皇もその支配下に入ることになると主張した。すなわち、「不敬」であると。

 折しもこの頃、国会開設を求める自由民権運動が全国で高まりを見せていた。伊勢派は各地を巡教してオオクニヌシの神徳を説く尊福を、辻々で遊説する民権運動の活動家と重ね、国体を紊乱するものとして攻撃した。ついには尊福を暗殺するとの風聞まで流れ始めた。神学上の論争であったはずの祭神論争は、もはや論争の域を超え混迷の度を深めていった。

 

[参考文献]

原武史「日本政治思想史」(放送大学教育振興会)

原武史「<出雲>という思想」(講談社学術文庫)

岡本雅亨「千家尊福と出雲信仰」(ちくま新書)

藤井貞文「明治国学発生史の研究」(吉川弘文館)

神道文化會「明治維新 神道百年史」第五巻

出雲紀行14. [本居豊頴の檄]

 神道事務局の神殿に造化三神アマテラスの他、オオクニヌシを合祀するよう求めるも、田中頼庸の反対により叶わなかった千家尊福(たかとみ)であるが、それであきらめたわけではなかった。1878(明治11)年3月、神道事務局内に新しい神殿を造営することが決まると、5月と7月に再び建議書を提出した。

 尊福は、顕事を司る天皇と幽事を治めるオオクニヌシ、すなわち生きている間と死後と、二つの世で頼るべきものを民に示して、安心立命の地を与えることが布教の急務であると説いた。だが、評議で却下されてしまう。

 潮目が変わったのは、1880(明治13)年のことだった。神道事務局の神殿の落成と遷座祭執行にあたり、1月、尊福は神道事務局詰の大教正ら5人に宛てて建議書を提出した。この中で尊福はオオクニヌシの合祀について、公論にかけて決めるよう訴えている。これに賛同者が現れたのだ。事務局詰の権大教正で、本居宣長のひ孫・本居豊頴(とよかい)と、大教正の平山省斎だった。二人は、尊福と頼庸を招致して協議することを提案する。

 東京府神道事務局分局の局長を務めていた豊頴は、副長らと話し合いの上、3月に連名での意見書を神道事務局に提出した。意見書はオオクニヌシの功業は神典を読めば明白であり、新しい神殿に表名合祀して天つ神の意志に沿うべきという内容だった。オオクニヌシ合祀論に対する、東京分局の見解を示したといえよう。本居国学の継承者である豊頴の影響力は大きく、これを機に合祀に賛同する声は続々と広がっていった。

 

 1880(明治13)年4月、尊福と頼庸は神道事務局で会談を行った。尊福は頼庸に意見書を手渡し回答を求めたが、頼庸は明日回答するとして、その場では答えなかった。翌日になると、今度は他の教導職の意見を聞いて決めることにしたと、前言をひるがえしてきた。これに憤慨した尊福が追及すると、原則的には合祀に賛成であるが、異議もあるだろうから他のものの意見も聞くべきだとした。ところがこの4日後、神殿の遷座祭が行われ、頼庸が斎主を務める中、造化三神アマテラスが祀られてしまったのである。

 尊福は頼庸ら伊勢派が神道事務局の中枢を担っている以上、オオクニヌシの合祀は不可能だと考えた。神道事務局そのものを改革しようと意見書を提出するが、それもまた容易ではなかった。だが、この時本居豊頴も連名で同様の意見書を提出する。さらに6月、豊頴は「神道事務局保護方之檄」と題する檄文を有志とともに作成し、全国の教導職に配布した。

 檄文の中で豊頴は、神道事務局の本局を新たに建築すること、本局詰員の改選を行うことなどを要求した。これは神道事務局が、東京の神宮司庁出張所の敷地内に置かれており、神宮すなわち田中頼庸の影響力の及ぶところが大きかったためである。豊頴は「知ラサル者ハ、蓋シ神道事務局ヲ以テ神宮司庁内ノ一局ト誤認スルナル可シ」、つまり神道事務局が神宮司庁の一部になり果てていると痛烈に批判している。

 ことは建物だけの問題ではなかった。檄文によると、新しい神殿の名称は「皇大神宮」とされ、祭祀ではアマテラスの名前が唱えられて、神宮の神誠五ヶ条なるものが朗誦された。豊頴に言わせれば、神道事務局が神宮の店子状態であるから、このようなことが起きるのである。

 また、千家尊福が訴えるオオクニヌシの合祀以外にも異論は多数あり、神道界は依然四分五裂の状態にあった。にもかかわらず、新たに落成した神殿が一派神道のようになってしまっているのは憂慮すべきことだった。この分裂状態から神道を立て直すためには、世の公論に従ってオオクニヌシを表名合祀すべきであると、豊頴は説いたのだ。

 

[参考文献]

原武史「<出雲>という思想」(講談社学術文庫

岡本雅亨「千家尊福と出雲信仰」(ちくま新書

藤井貞文「明治国学発生史の研究」(吉川弘文館

出雲紀行13. [浦田長民と田中頼庸]

 浦田長民(ながたみ)は明治初年の神宮改革(出雲紀行5. [神道国教化と伊勢神宮] - 旅と映画)の立役者といってよいだろう。1868(慶応4)年7月、山田奉行所が廃止され度会府(わたらいふ)が置かれると、伊勢神宮内宮の権禰宜だった長民が、同府の御用掛に任命された。その翌月、長民は度会府に建言を上申している。建言には豊受宮(外宮)を大神宮(内宮)の宮域内に遷座し両宮の一本化を図ることや、祭主宮司の世襲制の廃止を求める内容が含まれていた。その後の神宮改革がそのように進んだことは既に書いた通りである。

 長民は1869(明治2)年4月に度会府の権判事となるが、翌年持病の神経痛のため辞任する。だが、1871(明治4)年8月、神祇官(省)に招聘され出仕し、神祇省の官吏となった。10月に太政官からの辞令を受け伊勢に帰着、神宮改革に着手した。その後、神祇省に代わり新たに設置された教部省の官職に就きつつ、1872(明治5)年7月より神宮小宮司を兼任した。

 官吏から神職へというコースは田中頼庸(よりつね)と共通する。だが、1874(明治7)年1月に頼庸が神宮大宮司に就任する際、長民は頼庸の人柄に難があり、学はあっても大宮司の任にふさわしくないことなどを理由に、これに反対している。頼庸が大宮司に選任されたのは、先代の大宮司・本荘宗秀の死に伴うものだが、小宮司である長民を大宮司に昇進させ、頼庸を小宮司に迎えるとの案もあったようである。だが、頼庸と同じ薩摩藩の出身である三島通庸の尽力により、頼庸は大宮司の座に就いた。長民としては複雑な胸中であったろう。

 

 田中頼庸と千家尊福(たかとみ)が意見を戦わせた神道会議から半年あまりが過ぎた1876(明治9)年8月、浦田長民は伊勢派の教義をまとめる「大道本義」を刊行した。

 この本の中で、長民は「かの幽界の大廷の若(ごと)きは則ち二有り」と述べた。第一の大廷は高天原であり、宇宙の中に無数にある幽界を統括しており、単に地球の幽界にのみ留まるものではない。第二の大廷は根底国である。そこはアマテラスの弟であるスサノオと、国産みの神であるイザナミが統治している。罪を犯した魂に刑を与えているが、その処置の際にはまず高天原の勅裁を仰いでいる。だから根底国、すなわち幽界も高天原の統括に属するというのだ。オオクニヌシが幽冥界を支配するのは、アマテラスに命じられたからとする、大国隆正の影響が感じられる。ともあれ、オオクニヌシよりアマテラスを優位に置くものであり、当然出雲派からは批判の声が上がった。

 ところが、神道文化會の「神道百年史」によると、「大道本義」は刊行からわずか3ヶ月後の11月、「『都合之儀有』りとして」「滅板に附された」という。(三木正太郎「神宮祠官の活動 ――浦田長民を中心とする――」)「滅板」とは聞きなれない言葉だが、現在でいう絶版のようなものだろうか。

 長民は「大道本義」下巻で、人の魂の死後の行方について説いていた。長民によると人の魂は死後に幽界に属し、幽界は各地の産土(うぶすな)神、すなわちその土地を守護する鎮守の宮にある。それを総括するのが出雲大社だという。そうであれば、必ずしも出雲派の教義を否定するものではなく、むしろ伊勢派にとって都合の悪いものといえる。

 長民は「大道本義」が滅板になって間もなく、1877(明治10)年12月に神宮小宮司を退任している。以後は田中頼庸が、教義の面でも伊勢神宮を引っ張ってゆくこととなった。

 

[参考文献]

原武史「日本政治思想史」(放送大学教育振興会)

原武史「<出雲>という思想」(講談社学術文庫)

神道文化會「明治維新 神道百年史」第五巻

出雲紀行12. [薩摩派と津和野派]

 1875(明治8)年12月の神道会議で、新たに創設された神道事務局の神殿に造化三神アマテラスに加え、オオクニヌシを合祀するよう求めた千家尊福(せんげたかとみ)であるが、その提議は認められなかった。神道会議の議長で、伊勢神宮の大宮司である田中頼庸(よりつね)が反対したためである。その詳細は明らかでないが、頼庸は「造化主ノ名ニヨリ新規ノ一宗教トナサン」、つまり造化三神を新しい一宗派にしようと試みたようである。だが、その意見は「古義古典ヲ放棄」して論拠にとぼしく、「可決ヲ議員ノ多数ニ取ラス、往々議長ノ特権ヲ行」うなど、専横的なものだった。

 こののちも頼庸と尊福は度々対立し、神道界を「伊勢派」と「出雲派」に二分する祭神論争へと発展する。

 

 田中頼庸は1836(天保7)年に薩摩藩士の家に生まれた。京都で国学を学んだ後、薩摩藩の神社奉行になると藩内の寺を全廃させるという、すさまじい廃仏毀釈を主導した。1871(明治4)年に神祇省へ入省、教導職を経てわずか3年後の1874(明治7)年、神宮大宮司に抜擢される。この大抜擢は、同じ薩摩出身の教部省官吏・三島通庸(みちつね)の推薦によるものだった。彼ら薩摩出身の神道家のことを「薩摩派」という。

 明治初期の新政府内で、神祇行政の主要ポストについていたのは、岩見(現島根県)津和野藩出身の大国隆正、亀井茲監(これみ)、福羽美静(よししず)ら「津和野派」の人々だった。明治新政府は1886(慶応4)年2月に茲監を神祇事務局の判事、隆正を権判事に任命している。

 隆正は平田篤胤の門人だが、篤胤の思想には批判的だった。隆正は人が死後に行く「幽界」は5つの世界にわかれているとし、その中でも「日輪中の幽界」を支配するアマテラスが「至大至尊の神霊」であると説いた。篤胤神学では幽冥界を統治しているオオクニヌシだが、隆正に言わせればアマテラスから命じられたので統治しているにすぎない。また、造化神であるアメノミナカヌシも、アマテラスが生まれて以降は天・地・神・人・物に関する権限を委ねたとしている。アマテラス一神のみが突出して、全てを治めている形だ。

 その隆正の門人である美静は、1871(明治4)年10月に神祇省のトップである神祇大輔になると、長州出身の小野述信、伊勢出身の浦田長民(ながたみ)らと連名で「神祇省の基本的方針」を作成した。美静も隆正同様にアマテラスを重視し、人がこの世に生まれることも、生まれて活動することも、幽冥界から生まれ幽冥界に帰ることも、全てアマテラスの恩恵であると考えた。アマテラス高天原を支配するのみならず、天と地の造化をも司る神であり、今の天皇の遠い祖先である。だから今上天皇は現人神であり、アマテラス同様にその恩を奉らなければならないとした。

 対し、薩摩派はアマテラスではなくアメノミナカヌシ、タカミムスビカミムスビ造化三神を「開元造化の主神」と考えていた。頼庸が神道会議で主張した造化主の名による新しい宗派とは、ここに由来する。

 1872(明治5)年4月、明治新政府は仏教勢力も取り込んだ国民教化を進めるべく、神祇省を廃止し、教部省を設置した。これを主導していたのは、津和野藩と密接な関係にある長州出身の木戸孝允だった。1871(明治4)年末、木戸が岩倉使節団の一人としてヨーロッパへ旅立つと、西郷隆盛を後ろ盾とする薩摩派が教部省内で力を持つようになり、津和野派を排して実権を握るに至った。

 ところが翌年、明治六年の政変が起きると西郷は下野し、今度は薩摩派が教部省から排除される。頼庸は教部省で権少教正の地位にあったが、1874(明治7)年1月に神宮大宮司に就任する。

 この時、伊勢神宮の小宮司を務めていたのが、かつて津和野派の福羽美静と神祇省の基本的方針を作成した浦田長民だった。つまり、以後の伊勢神宮では薩摩派の頼庸が大宮司に、津和野派の流れをくむ長民が小宮司に就いていたのである。

 伊勢派、出雲派という名称から、祭神論争を「伊勢神宮出雲大社の争い」のように考えるのは正確ではない。新政府内部の力関係がからむ複雑な話であり、伊勢派はその実薩摩派であり津和野派でもあった。

 

[参考文献]

原武史「日本政治思想史」(放送大学教育振興会

原武史「<出雲>という思想」(講談社学術文庫

岡本雅亨「千家尊福と出雲信仰」(ちくま新書

出雲紀行11. [顕幽論④]

 国学復古神道へと転化した平田篤胤は、主著「霊の真柱(たまのみはしら)」の中でこのように書いている。

 「凡人(ただびと)も如此(かく)生て現世に在るほどは、顕明事(あらわごと)にて、天皇命の御民とあるを、死ては、その魂やがて神にて、かの幽霊・冥魂などもいふ如く、すでにいはゆる幽冥に帰(おもむ)けるなれば、さては、その冥府を掌(し)り治(しろし)めす大神は、大国主神に坐(ま)せば、彼神に帰命(まつろ)ひ奉り、その御制(みおきて)を承け賜はることなり」

 人は生きてこの世にいる内は顕露の事を治める天皇の民であるが、死んで幽冥界に赴いてからは冥府を治めるオオクニヌシに従うことになるというのだ。

 篤胤は人間がこの世にいる時間は百年にも満たないのに、幽冥界に入ってからは無窮、すなわち永遠であると指摘し、この世は仮の世であり、死後の幽冥界こそが本当の世であると考えた。オオクニヌシは「世に有ゆる人の、此世を過て、幽世に帰たらむ魂等」を支配する神であり、「あらゆる人」の中には顕露の事を治める天皇も含まれている。また、天皇はどれほど聡明であっても人であるので、他人が心ひそかに考えることや、隠された悪行を罰することはできない。しかし、幽冥界を治めるオオクニヌシはよく見通しており、霊魂の善悪を判別して悪行は罰し、善行はほめたたえるとした。

 篤胤は中国でキリスト教を布教していたマテオ・リッチ(利瑪竇 りまとう)の本を読んでおり、キリスト教の影響を受けていた。それにしても篤胤のこのような考え方は、天皇も人である以上万能ではなく、しかも死後は民と同じようにオオクニヌシに裁かれると解しうる、「不敬」な思想ではないだろうか。

 

 この篤胤の論をさらに発展させたのが、篤胤の門人の六人部是香(むとべよしか)だった。京都の向日(むこう)神社の神官である是香は、文政6(1823)年に篤胤に入門し、「顕幽順考論」などを著した。

 是香によると、人は死ぬと霊魂がその地域を守っている産須那(うぶすな)神のもとへと向かう。産須那神は霊魂を各地の一の宮へ連れて行き、霊魂はそこで神々から顕界(この世)での行いを入念に調べられ、振り分けられる。そののちに幽界でオオクニヌシの裁きを受け、「良善の人」は神位界へ昇り、「不善の人」は凶徒界へと落ちる。不善の人とは「神の本教を守らず、其精神を不忠不義の筋に活用し、或は暴悪の所為を行ふ」人を指す。

 これは天皇も例外ではなく、是香は天皇がその心を善事に用いれば神位界に行くが、善事に用いなかったり、深い恨みを抱いたまま亡くなったりすると、凶徒界に落ちると説いた。なぜなら、人間はアメノミナカヌシ、タカミムスビカミムスビの産霊(むすび)三神から「仁慈忠誠」の精神を付与されており、これを実践することが顕界での使命であるからだ。

 この仁慈忠誠の実践はその人の身分や立場にかかわらず自発的に行われるべきもので、それが死後の「幽の公役」へと関係してくる。顕世で天皇から庶民まで全ての人が「天下の公事」を担っていたように、幽界でもそれぞれに「幽の公役」を担うことになっており、顕界での行いが幽界での役に結びつくという。

 この是香の説の通りであるのなら、人は死後、この世での身分の上下に関わりなくオオクニヌシの裁きを受け、なおかつ生前の行いによって幽界での役割が決まることになる。善をなさなかった人は天皇であっても凶徒界に落ちる。是香は凶徒界に落ちた例として、保元の乱を起こすが敗れ、讃岐に流されそのまま没した崇徳天皇など、複数の天皇の名を挙げている。

 

 本居宣長が大成した国学に宗教的概念を取り込み、復古神道を確立した平田篤胤の門人である六人部是香は、宣長、篤胤の影響を受けながらも独自の思索を深め、顕幽論に基づいて人の生きる意味を説いた。そこで大きな役割を果たすのは、死後の霊魂を裁き、幽界を支配するオオクニヌシである。

 1875(明治8)年、神道事務局の設置にあたり、出雲国造神道西部管長の千家尊福(せんげたかとみ)が造化三神とアマテラスのほか、オオクニヌシを祭神に加えるよう求めたのはそのような理由からだった。

 しかし、このような篤胤や是香の思想が、これから天皇を頂点とする国家を作ってゆこうとする明治新政府にとって、到底受け入れられないものであることは言うまでもない。

 

[参考文献]

原武史「日本政治思想史」(放送大学教育振興会

原武史「<出雲>という思想」(講談社学術文庫

鈴木暎一「国学思想の史的研究」(吉川弘文館

末木文美士「死者と霊性の哲学 ポスト近代を生き抜く仏教と神智学の智慧」(朝日新書