旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

天皇制を考える

特に目的のない旅4.[磯部浅一と朝日平吾]

磯部浅一の墓は、墓地に入ってすぐのところにあった。 墓を訪ねたのは、彼の思想や行動に共感や賛同するところがあるからではない。以前、1921年に安田善次郎を刺殺した朝日平吾の下宿跡や墓を訪ねたことがあったが、この時も、朝日の思想や行動に共感、賛同…

松代大本営を訪ねる6.[松代大本営と戦後]

帰りに長野駅前で、Mさんから小さな石碑を教えられた。表には「日朝親善 恒久平和」、側面に「友愛」の文字が見える。1960年に在日本朝鮮人総連合会の長野県本部が建てたものだ。 松代大本営の建設工事は日本の敗戦とともに中断されたが、朝鮮人労働者みな…

松代大本営を訪ねる5.[賢所と「純粋日本人」]

賢所の造営にあたり、宮内省からはもう一つ注文が出ていた。それは掘削は「純粋日本人の手による」というものだった。 松代大本営の建設工事には、様々な人が動員されている。計画から調査、設計までを行ったのは陸軍省軍務局や兵務局だが、実際の工事にあた…

松代大本営を訪ねる4.[松代大本営と天皇制]

強制立ち退きはこれだけにとどまらなかった。翌1945年4月、今度は西条村の村民124世帯に立ち退きが命じられた。軍から長野県知事に対し要請があり、さらに知事から西条村村長に「軍の施設を作る」という名目で協力が求められたのだった。 求められた協力と…

東京大逆ツアー 八王子編4. [市ヶ谷刑務所 刑死者慰霊塔]

武蔵陵墓地で陵墓を観察したら、友人の提案で立川に移動。立川には国営昭和記念公園があるのだ。天皇裕仁の在位50周年を記念して作られた公園で、園内には昭和天皇記念館もある。もっとも、武蔵陵墓地を訪ねた後に昭和天皇記念館に行ったりしては、ゴリゴリ…

東京大逆ツアー 八王子編3. [武蔵陵墓地②]

今回、武蔵陵墓地について調べる中で初めて知ったことであるが、天皇皇族の墓については1926年10月21日に公布された「皇室陵墓令」という法律がある。1947年5月2日に廃止されているが、それに代わる新たな法令は制定されておらず、事実上その内容が今日ま…

東京大逆ツアー 八王子編2. [武蔵陵墓地①]

久しぶりの東京滞在、2日目は午前中から八王子へと向かった。行き先は武蔵陵墓地。大正天皇の多摩陵、貞明皇后の多摩東陵、昭和天皇の武藏野陵、香淳皇后の武蔵野東陵の4つの陵が造営されている。大正天皇の多摩陵は初めて東日本に作られた天皇陵だ。 武蔵…

東京大逆ツアー 八王子編1. [あえて陵墓を訪ねる]

6月26日から28日にかけ、2泊3日で東京に行ってきた。本来は5月中旬に予定していたのが、例によってコロナウイルス感染拡大の影響で延期になっていたものだ。今回の行先は八王子。八王子には何があるか。天皇陵である。八王子には大正天皇の墓である多摩…

それは共感でも好意でもない9. [筥崎宮]

ことは宮中祭祀だけではなかった。日中戦争が始まると、皇太后節子は戦地から戻った軍人と会うようになった。軍人はまず午前10時に明治宮殿の御学問所で天皇に拝謁して戦況を報告し、午後から今度は豊明殿にて皇太后に報告を行った。御学問所とは天皇が政務…

それは共感でも好意でもない8. [香椎宮③ 古宮]

香椎宮本殿の脇を通り、裏側へ抜けると少し小高い場所に一本の樫の木が見える。 これは神功皇后の夫・仲哀天皇の棺を立てかけたとされる、神木香椎(棺掛椎 かんかけのしい)だ。 さらに石段を登ると、「仲哀天皇大本営御聖蹟」と刻まれた碑が立っている。仲…

それは共感でも好意でもない7. [香椎宮② 神木綾杉と亀乃池]

香椎宮の鳥居をくぐり、太鼓橋を渡って本殿の方へまっすぐ進んでいくと、神木の綾杉が見えてくる。 神功皇后が三韓征伐から戻った際、剣・鉾・杖の三種宝を埋め、その上に杉の枝を植えたものと伝えられている。鎌倉時代初期に編纂された「新古今和歌集」の中…

それは共感でも好意でもない6. [香椎宮① 勅使道と貞明皇后行啓記念碑]

そのようなわけで、正月三が日明けの1月4日、放送大学・原武史先生の「皇后考」を参考に、一人で香椎宮を訪れた。初詣ではなく、フィールドワークである。 香椎宮は福岡市東区にある神社で、その起源は西暦200年にさかのぼる。仲哀天皇が后の神功皇后とと…

それは共感でも好意でもない5. [神ながらの道への傾倒]

天皇嘉仁の体調に変調が見られ始めるのは1914年、元号でいうと大正3年頃と推察される。まず軽度の発語障害や階段の上がり降りが難しくなるなどの症状が表れたようだが、病名については現在も公表されていない。皇后節子(さだこ)が「神(かん)ながらの道…

それは共感でも好意でもない4. [山川三千子の憂うつ]

元号が明治から大正に変わったのは1912年7月のことである。7月19日、夕食後に突然倒れた天皇睦仁(明治天皇)はわずか10日後の7月29日にこの世を去る。(公式発表は30日) 嘉仁が天皇になり、節子は皇后となったが、この新しい天皇は先代とは全くタイプが…

それは共感でも好意でもない3. [産む機械]

1900年5月、九条節子(さだこ)は皇太子嘉仁(後の大正天皇)と結婚し、皇太子妃となった。だが、その新婚生活は順調なものではなかった。例えば結婚からわずか2ヶ月ほどしかたっていない1900年7月、嘉仁は神奈川県の大磯にあった、旧佐賀藩主で公爵の鍋…

それは共感でも好意でもない2. [九条節子という人]

貞明皇后の結婚前の名前は、九条節子という。せつこではなく、さだこと読む。貞明皇后というのは亡くなった後に送られた称号、おくりなである。 九条節子は1884年6月、公爵九条道孝と側室の野間幾子の間に生まれた。生まれてすぐに東多摩郡高円寺村(現・杉…

それは共感でも好意でもない1. [なぜ私は貞明皇后に関心を抱いたか]

1月4日に福岡市東区の香椎宮と筥崎宮を訪ねたのは、初詣ではなくフィールドワークのためである。 きっかけは2年前、放送大学の原武史先生の「日本政治思想史」を受講したことだった。日本の著名な思想家を年代別に紹介し、その思想について解説するものか…

東京旅行5.[皇居前広場④]

さて、再び原武史先生のテキストに戻って、戦後の皇居前広場。 1945年8月10日の御前会議にて、国体の護持を条件にポツダム宣言の受諾を決定した日本政府は14日に正式に受諾、9月2日、東京湾に停泊したアメリカ軍艦ミズーリ号上で降伏文書に調印した。9月…

東京旅行4.[皇居前広場③]

さて、今回皇居前広場を訪ねたのには、実はもう一つ理由がある。二重橋が見てみたかったのだ。 1924年1月5日、金祉燮(김지섭 キムジソプ)という朝鮮人が二重橋付近で爆弾を投げる事件が起きている。彼は朝鮮の独立と平等な社会を実現するために結成され…

東京旅行3.[皇居前広場②]

皇居前広場について、引き続き原武史先生のテキストに沿って説明。 大正天皇が亡くなり、昭和に改元したのは1926年12月25日のことだ。昭和は末年も1週間しかなかったが、元年も1週間足らずしかないのである。 昭和の即位礼(大嘗祭)は1928(昭和3)年11…

東京旅行2.[皇居前広場①]

金曜日に東京に着いて錦糸町のホテルに宿泊、翌土曜日、東京駅から皇居前広場を訪ねた。 東京駅丸の内駅舎の天井。 みんな天井を見上げて写真を撮っているので、私も見上げてみた。 今回の旅行は放送大学の原武史先生の授業に触発された部分が大きいので、以…

東京旅行1.[なぜ、私は皇居前広場を訪ねたのか]

週末、東京を旅してきた。今回の旅行は、放送大学で今年度前期に原武史先生の「日本政治思想史」を受講したことが大きい。 著名な思想家の書き記したものからその思想を学ぶのではなく、広場、鉄道、団地といった「空間」に着目する空間政治学という手法で、…