近現代史
勅裁翌年の1882(明治15)年1月、明治新政府は次のような内務省達書を公布した。 「自今神官ハ教導職ノ兼補ヲ廃シ葬儀ニ関係セサルモノトス」(内務省達乙第七号) 政府は神官が教導職を兼ねることを廃止し、葬祭に関わることを禁止した。これは祭祀と宗教…
結局、祭神論争に終止符を打ったのは、天皇による勅裁だった。神道界の紛糾を憂慮した政府が事態の収拾に乗り出したのだ。まず1880(明治13)年12月、内務卿松方正義が、伊勢神宮小宮司で神道副管長の田中頼庸(よりつね)に神道会議の開催を指示した。これ…
本居国学の継承者である本居豊頴(とよかい)が書いた「神道事務局保護方之檄」への反響は大きかった。神道事務局や、教部省の廃止に伴い設置された内務省社寺局には、オオクニヌシの合祀に関する投書が全国から送られてくるようになり、その数、約13万通に…
神道事務局の神殿に造化三神とアマテラスの他、オオクニヌシを合祀するよう求めるも、田中頼庸の反対により叶わなかった千家尊福(たかとみ)であるが、それであきらめたわけではなかった。1878(明治11)年3月、神道事務局内に新しい神殿を造営することが…
浦田長民(ながたみ)は明治初年の神宮改革(出雲紀行5. [神道国教化と伊勢神宮] - 旅と映画)の立役者といってよいだろう。1868(慶応4)年7月、山田奉行所が廃止され度会府(わたらいふ)が置かれると、伊勢神宮内宮の権禰宜だった長民が、同府の御…
1875(明治8)年12月の神道会議で、新たに創設された神道事務局の神殿に造化三神とアマテラスに加え、オオクニヌシを合祀するよう求めた千家尊福(せんげたかとみ)であるが、その提議は認められなかった。神道会議の議長で、伊勢神宮の大宮司である田中頼…
国学を復古神道へと転化した平田篤胤は、主著「霊の真柱(たまのみはしら)」の中でこのように書いている。 「凡人(ただびと)も如此(かく)生て現世に在るほどは、顕明事(あらわごと)にて、天皇命の御民とあるを、死ては、その魂やがて神にて、かの幽霊…
平田篤胤(ひらたあつたね)は1776(安永5)年、秋田藩に生まれた。20歳の頃に学問を志して江戸に出奔し、1803(享和3)年、本居宣長の著作に触れ感銘を受ける。宣長はその2年前に既に亡くなっていたが、篤胤は「夢の中で宣長に会い、入門を許された」と…
「顕」と「幽」は、「日本書紀」一書の第二に記された「国譲り」の場面に登場する。一書は「あるふみ」と読み、本文に対する異伝のことだ。「日本書紀」は本文に対し多くの異伝が付いており、一書を読むことで初めて本文との脈絡がつながる場合もある。異伝…
島地黙雷ら真宗勢力の反発により大教院が解散されたのちの1875(明治8)年3月、新たな教導拠点として設置されたのが、神道事務局だった。設置にあたり、教部省に提出された「神道事務局創建大意」には、これまでの神道教化がうまくゆかなかった要因が挙げ…
出雲国造・千家尊福(たかとみ)という強力なカリスマを教導職の西のトップに任命したものの、明治新政府の神道国教化政策は再び暗礁に乗り上げる。原因は仏教界からの反発である。 話は明治以前にさかのぼる。徳川幕府は仏教諸宗派の本山・本寺の地位を保障…
1871(明治4)年5月、太政官布告により神職の世襲制が廃止されたことは、当然出雲大社にも無関係ではなかった。第79代出雲国造の千家尊澄が罷免され、代わりに1872(明治5)年1月、太政官が息子の尊福(たかとみ)を大宮司に任命した。 この年3月、明治…
明治新政府は神道の国教化に伴い、大規模な改革を行っていた。その代表的なものが神宮に対する「神宮改革」である。現在では一般に「伊勢神宮」と呼ばれているが、「神宮」が正式な名称だ。神宮という一つの神社があるのではなく、三重県内4市2郡に渡って…
国造制は全国から国造が消えた後も、唯一出雲でのみ連綿と受け継がれてきたが、明治に入り、政府により復活した古代の制度がある。神祇官がそれだ。 1867(慶応3)年10月、大政奉還により政権は幕府から朝廷へと渡されたが、旧幕府勢力は依然、実権を握るこ…
島根県立古代出雲歴史博物館で宇豆柱(うづばしら)を見たら、出雲大社に向かう。大鳥居をくぐり、参道をそれて右手に進むと今日の目的が見えてきた。第80代国造(こくそう)・千家尊福(せんげたかとみ)の像である。 国造とは古代の地方行政官のことを指す…
出雲滞在2日目は、朝から出雲大社に向かった。出雲大社までは、一畑電車の電鉄出雲市駅から最寄りの出雲大社前駅まで30分弱。駅から神門通りをまっすぐ進むと、やがて大きな鳥居が見えてくるがまだくぐらず、先に隣接する島根県立古代出雲歴史博物館に入っ…
毎年、年末に仕事納めをしてから、年が明けて仕事始めまであっという間なのだけれど、2024年から25年にかけての年末年始は長かった。カレンダーの関係で9日もあったのだ。さて、どうしよう?ということで、以前から関心のあった島根県は出雲に行ってみるこ…
映画「オッペンハイマー」の見せ場の一つは、1945年7月16日に行われたトリニティ実験を再現した場面だろう。 トリニティ実験は、ロスアラモスから約320キロ離れたニューメキシコ州中南部の砂漠地帯ホルナダ・デル・ムエルト(スペイン語で「死者の旅」の意…
ロスアラモスはニューメキシコ州の州都サンタフェから北西に約40キロ、標高2200メートルの高地に位置する。ネットで検索すると、澄み切った真っ青な空と岩山、赤や黄色に色づいた広葉樹などの画像が出てくる。シカやコヨーテ、プレーリードッグなどの野生動…
クリストファー・ノーラン監督の「オッペンハイマー」は、原爆投下後の惨状を描いていないことで批判されているが、私が気になったのは別のことであった。 映画は、原子爆弾を製造したマンハッタン計画がどのように遂行されたかが見どころの一つとなっている…
さて、「ふもれすく」は辻潤が伊藤野枝を追悼して書いた文章であるが、辻は野枝の死をどのように知ったのだろうか。 1923年9月1日の関東大震災の発生時、辻は銭湯にいた。地震に驚いて裸で飛び出し、自宅に帰ってみると母や子ども(のちに詩人・画家となる…
伊藤野枝と辻潤が離婚した理由は様々なのだろうが、一つには政治や社会に対する姿勢の違いがあったようである。よく知られているのが、アナキストの渡辺政太郎から足尾銅山の鉱毒被害と、それにまつわる政府からの弾圧や迫害に苦しむ谷中村の人々の話を聞き…
辻潤が「伊藤野枝の元夫」として扱われることに、不満を抱いていたことは前回書いた通りである。確かに離婚して何年もたっているのに、いつまでも「元夫」と呼ばれ、なおかつ「女房に逃げられた」と言われ続けるのは不愉快なことだろう。だが、女性が「誰々…
4月の初めに、上野を歩いてきた。朝の10時から国立科学博物館に行き、4時間ほどかけて展示を見た後、周辺をぶらり。立ちよった一つが、上野学園だ。 上野学園とひとまとめになっているが、上野学園中学校、上野学園高等学校、上野学園短期大学から構成され…
ドイツ兵俘虜慰霊碑は、JR南久留米駅から歩いて20分ほどのところにある。慰霊碑のほか旧陸軍に関係する戦跡がいくつか残っているので、それらも併せて訪ねてみた。 まず、歩いていると唐突に「忠霊鎮護之地」と刻まれた石碑が見えてくる。大きくカーブした…
1914(大正3)年10月、久留米にドイツ兵俘虜(捕虜)を収容するための収容所が設置された。全国で最初に設置された収容所である。所長は樫村弘道が務めた。 京町の梅林寺、日吉町の大谷派教務所・事務所、篠山町の香霞園、三井郡上荒木(こうだらき)村の高…
一度ゆっくり訪ねてみたいのだけど、なかなか叶わずにいるところの一つに、久留米がある。福岡県の南部、筑後平野に位置する久留米市は、私が住んでいる福岡市から西鉄電車の特急に乗れば30分。筑後川がゆったりと流れ、文化の香りがする素敵な街である。仕…
慶応3(1867)年、アメリカに留学した14歳の高橋是清は、まずサンフランシスコでヴァンリードという老夫婦の家に世話になることとなった。老夫婦は最初こそ歓待してくれたものの、是清に料理の手伝いや部屋の掃除、使い走りなどの下働きをさせ始める。勉強…
江戸東京たてもの園にて、高橋是清邸を見る機会があった。高橋是清は言うまでもなく、日本の首相にもなったことのある人物だ。たてもの園に保管されているのは、1902年に赤坂に建てられた家屋で、実はこの2階が二・二六事件の舞台である。 二・二六事件が起…
ロボットが好きである。どれくらい好きかというと、福岡には「ロボスクエア」というロボットの科学館があるが、昔はクリスマスシーズンになると、ロボットによるクリスマスショーが行われていた。それを毎年見に行っていたくらいには好きだ。ソフトバンクの…