旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

「ウーマン・トーキング 私たちの選択」

 キノシネマ天神で、サラ・ポーリー監督の「ウーマン・トーキング 私たちの選択」を鑑賞。自給自足の生活を送るキリスト教一派の暮らす村で、不可解な事件が頻発する。女性が朝目を覚ますと身体にあざや傷があり、性器から出血しているというものだ。要するにレイプされた痕跡があるのだが、悪魔のしわざとして処理されてしまう。
 だが、村の男性たちが共謀してターゲットの女性に家畜用の鎮静剤を使い、集団で性的暴行を加えていたことが発覚する。悪魔のしわざではなく、計画的な犯罪だったのだ。加害者たちは逮捕されるが、保釈金を払えば釈放される。タイムリミットは2日間。女性たちはどうするかを話し合う。選択肢は3つ。赦すか、男たちと戦うか、村を出ていくか。
 場面の多くは、屋内での女性たちによる対話である。話し合いは薄暗い納屋で行われているため、映像は色彩が抑えられモノクロに近い。どうするかを決めるため、女性たちはまず投票を行う。彼女たちは「何かに投票する」ということ自体、初めてだ。文字の読み書きができないため、選択肢はイラストで示され、バッテンを付けることで一票を投じる。
 モノクロに近い映像や女性たちが読み書きができないという設定、クラシカルな服装などから、前近代の話かと錯覚するが、実は舞台は2010年であることが途中で明らかになる。
 思えば、性暴力を受けた被害者が選択を迫られるのは、現代の日本でも同じである。被害を公にせず沈黙するか、告発して戦うか、加害者から距離を置くことで安寧な生活を取り戻すかといったことだ。
 方法が一つではなく、被害者が考え選ばなければならないのは、そのいずれにもリスクがあるからだ。沈黙すれば表向きは何もなかったように装えるが、被害者の尊厳は踏みにじられたままである。告発し戦っても必ずしも勝てる保証はないし、さらに傷つけられるかも知れない。加害者から距離を置こうにも、相手が身近な人間であった場合それは容易でない。職を失うなど、大きな代償を払わなければならないこともある。この映画の女性たちも全く同じだ。
 映画の中では、年長の女性が聖書の教えに則って赦すことを説く。だが、「絶対に赦せない」「子どもを守るために戦うべきだ」と主張してゆずらない女性もおり、話し合いは紛糾する。
 女性たちの議論に耳を傾け、黙って議事録を取るのは一人の若い男性だ。彼は子どもの頃に一家が村を追放され、大人になってから教師になって村に戻ってきた。村の男たちから異質な存在として扱われていることが察せられる。つまり、女性たちと近い立ち位置にいる。彼は「男らしさ」のはらむ暴力性を知っており、コントロールするためには教育が大切だと考えている。女性たちの怒りや恐怖に共感し、分断された女性たちをつなぎとめる役割を果たす。
 彼がなぜ、そのように女性たちに寄り添えるのかは、映画の終盤に暗示されるのだが、女性たちも議論する中でこれが社会構造の問題だと気付き始める。その結果、女性たちが下した結論は何か。me tooのその先を示す、極めて今日的な映画である。