旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

2018年 金子文子忌2.[社会主義おでんと日比谷公園]

 金子文子の命日である7月23日、東京の「いわさき」という食堂でお昼を食べた。

 

Iwasaki

 

 文子は上京後、新聞売り、露天商、住み込みの女中などを経た後、1921年11月頃から「岩崎おでんや」で働いていた。麹町区有楽町にあった岩崎おでんやは通称「社会主義おでん」といい、社会主義者や新聞記者、文士などが集まる店だった。

 文子が朴烈の書いた詩を読んで、激しく心揺さぶられるのはこの店に勤めていた時のことだ。文子は共通の知り合いを通じて朴烈に是非会いたいと頼み、岩崎おでんやへ来てくれるよう伝言する。その伝言から1ヶ月ほどが過ぎあきらめかけていた頃、店に朴烈が現れる。文子は煮込み豆腐や大根を朴烈に食べさせる。その日は会話らしい会話もなかったが、朴烈はその翌日も店に現れ、文子は自分の気持ちや考えを告白する。

 その岩崎おでんやが場所を変え、今も食堂として営業しているのが「いわさき」だ。テーブル席が3つと、カウンターに3人も座ればいっぱいになってしまいそうな小さな店だが、私が行った日は次々と客が訪れていた。付近の会社員に人気の食堂のようだ。店内には古い写真が何枚か飾られており、金子文子の名は出てこないものの、「社会主義おでん」の時代をしのぶことができる。

 いわさきを出た後は、日比谷公園に行ってみた。私にとっては焼き打ちをされたり、ファシズム台頭の舞台になったりした歴史の現場である。

 日比谷焼き打ち事件が起きたのは1905年のこと。日露戦争に勝利したものの、ロシアから賠償金が支払われなかったことで国民の怒りが爆発、日比谷公園で大規模な講和条約締結反対集会が行われる。警察は治安警察法を適用して群衆を解散させようとするも衝突、暴徒化した群衆は大臣官邸や政府系の新聞社、交番などを襲撃。政府は戒厳令を発令してこれを鎮圧した。この時に群衆を扇動したとして逮捕されそうになったのが、黒龍会内田良平である。

 内田の自伝「硬石五捨年譜」にはこうある。

 

 「両人懐中より一葉の写真を取り出し『之れは誰なるや』と問ふ。余之れを見るに写真は日比谷街頭に於て群衆を指揮するの光景なり。一人は佃信夫、一人は余に酷似せり。余怪みて曰く『此の写真の顔は慥かに余の如し。然るに余は集会所に在りて、如斯き場所に居るべき筈なし。君等余の言を疑はば之を三井の重役に糺せ』と。(中略)而して写真は警視庁が吾人を検挙する為め、騒擾の際帝国ホテルに宿泊せる外国人の撮影せる写真を手に入れ、佃と余との顔を切り継ぎ複写したるものの由、其後聞き込み警視庁の悪辣手段に一驚せり」

 

 つまり、憲兵隊が二人、内田の自宅に来て一枚の写真を見せ「これは誰か」と言った。見ると日比谷の街頭で群衆を扇動する写真であり、一人は佃信夫、もう一人は自分によく似ている。しかし、自分はその時集会所にいて、こんな場所にいるはずがない。実はこの写真は、警視庁が佃と内田の顔写真を切り貼りして複写した、捏造写真であったと。

 内田良平の思想や活動には私は共感も賛同もしないが、このエピソードは興味深い。

 

Hibiya

 

焼き打ちされた松本楼

 

 ファシズム台頭の舞台になったのは1921年である。この年の3月から9月にかけヨーロッパ訪問の旅に出ていた皇太子裕仁(のちの昭和天皇)が帰国、9月8日に日比谷公園で市民奉祝会が開かれる。この会には約3万人の市民が参加し、皇太子が令旨を読み上げると市民の間から「万歳!」の声がわき起こった。

 それまでの明治天皇大正天皇行幸の際にも、人々が御召列車に向かってひれ伏したり、敬礼をしたりすることはあった。しかしこれ以降、皇太子の行啓を迎える型式が変わっていく。訪れる先で旗行列や万歳三唱、行進などの能動的な行動が行われるようになる。それは臣民による「下から」のファシズムだった。その皮切りとなったのが日比谷公園での奉祝会だったのである。

 それにしても、暑い。後で知ったが、この日の東京の最高気温は40度。本州、特に東日本に行くと「九州は暑いでしょう」と言われるが、いやいや大差ないですよ。福岡の夏は蒸し暑い。東京の夏は、ギラギラしたアスファルトの照り返しがすさまじい。ついでに言うと、山梨の暑さはうだるようである。いずれにせよ、暑さに弱い私は辛い。辛いけど、この旅行から帰った後から、35度くらいなら「今日はまだ涼しいな」と思えるようになった。

 しかしまぁ、日比谷公園には涼しい時期にまた改めて行きたいですね・・・

 

Ghq

 

 ちなみに日比谷公園近くの第一生命ビル。ここにGHQの司令部があったそう。