旅と映画

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金子文子と栗原一男4. [あいまいな爆弾テロ計画]

 不逞社のメンバー16人が起訴されたのは、「爆弾を入手し適当の機会に乗じこれを東京において使用し治安を妨げかつ人の身体財産を害せんことを企図」、つまり爆弾テロを企てていたとの容疑をかけられたためだった。

 メンバーの一部、金子文子と朴烈、朴烈を慕って東京に来た金重漢がそのようなことを話し合っていたのは事実である。例えば文子は、「岩崎おでん屋にいた頃、帝国議会に爆弾を投げ込んで、有象無象を殺してやろうと考えていた」と、取り調べの中で供述している。朴烈も自分と同棲を始める前から、同じようなことを考えていたと。

 だが、この爆弾テロ計画は、実行性については疑問が残るものである。

 金重漢が朴烈から「爆弾を使ってある非常手段を行い、ひと思いに死んでしまおうかと思っている」と打ち明けられたのは、1923年5月の7日か8日頃。金重漢と朴烈は共通の知人を通じてこの年の1月頃に知り合い、何度か手紙のやり取りをしていた。朴烈から無政府主義についてもっと学びたいと思った金重漢が、4月にソウルから東京にやってきたのだ。文子も朴烈から金重漢の手紙を見せられて、「まれに見る無政府主義に理解のある人」との好印象を抱いている。

 だが、「大杉栄加藤一夫のような男になりたい」と思って日本にやってきた金重漢は、爆弾を使った非常手段には賛同しかねると感じた。その日は「古ぞうりを捨てるように爆弾を投げるわけにはいかない」と言って、朴烈とわかれている。金重漢はテロには興味がなかったのだ。

 

 その後も二人は色々な話をしているが、5月20日、金重漢が最近の朝鮮国内の様子について、多少の誇張を加えて話をした。特に、日本からの独立を求めて非合法な手段も辞さない義烈団について、彼らの爆弾を日本の警察が試験したところ、非常に威力が強かったとか、時計じかけや電気じかけの爆弾があり、日本の官憲すらその取り扱い方を知らなかったなどと話すと、朴烈は非常に感心したようだった。

 朴烈がどうにかして爆弾を入手できないかと尋ねるので、金重漢は「自分が上海に行って1、2ヶ月滞在し、その方面の同志を求める」ことを提案した。そのための費用に千円から二千円くらいかかると言ったところ、朴烈は絶句し、「自分の生活にも困っているくらいだ」と言った。

 爆弾を投げる時期についても、朴烈は「この秋がよい」と言ったり、メーデーの時期と言ったり、場所についても「議会で投げてもよし、帝国劇場で投げてもよし」と一定しない。

 文子と朴烈は病弱な天皇大正天皇)のことを「病人」と呼んでいた。皇太子(のちの昭和天皇)のことは「坊ちゃん」、大臣は「有象無象」、警察はブルジョアの番犬だから「ブルドック」と呼んで、恐らく笑っていた。

 ここから感じられるのは、権力に反感を抱く若者のとんがった不遜な精神である。若さゆえに恐れを知らないカップルが、権力者のことをあだ名で呼んで笑い合い、爆弾で何もかも吹っ飛ばしてやることを夢想する。当時はそれだけでも「不敬」なことであったろうが、逮捕・起訴するほどのこととは思えない。だが、文子と朴烈はこれを逆手に取り、この後法廷で激しい権力批判を展開していく。

 

 一方、上海行を引き受けた金重漢である。結局、彼は上海には行っていない。不逞社で知り合った新山初代に恋をし、無政府主義者から「個人的享楽主義」に転じていったのだ。朴烈と思想が隔たっていったばかりか、軽率にも爆弾入手計画について新山に話してしまった。

 新山は不逞社に加入はしていたが、親友である文子に誘われたので会合に参加してみたら、そのまま会員にされてしまった節がある。一度、朴烈に退会を申し出ているが、朴烈から「不逞社は人を集めることが目的だから」「あとは気の合ったもの同士で行動すればよい」「会としては何もしないつもりだ」と説明され、しぶしぶ残っている。だが、不逞社の同人であることが新山自身も含む不逞社メンバーの人生を大きく狂わせてしまう。

 

[参考文献]

再審準備会編集「金子文子・朴烈裁判記録」(黒色戦線社)

山田昭次「金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人」(影書房