関東大震災は多くの人の人生を変えたが、栗原一男もその一人だった。
1923年6月に不逞社の同人になった栗原は、7月に朴烈・金子文子が借りていた一軒家に居候として転がり込んだ。8月25日頃、近所に部屋が見つかり、28日に引っ越している。震災が起きたのはその4日後で、引っ越したばかりの家はつぶれてしまった。栗原はいったん竹やぶに避難してから朴烈方に行き、その晩は家の前の原っぱで寝た。その時のことを文子は、のちに栗原に宛てた手紙にこう書いている。
「震災のあったあの日はあの家のあの草原に、積み上げた畳の上で、てんでに訳の解らぬことを言ひ合ひ乍ら、なけなしの米を炊いて食べてゐた。(中略)土手下で、身重な女が、大正琴を弾いてゐた。広い草原の彼方には、深紅な稲が燃えていた。月が、夕焼けの太陽のやうに変って・・・あゝ物凄い黄昏だったね」
未曽有の震災の前になす術もなく、ぼう然としている様子が伝わってくる。
夜が明けて翌2日、皆で崩れた家の壁を直したり、掃除をしたりしていると、不逞社の同人である崔圭悰が来た。
崔圭悰は「革命はこんな時でなければ起こらない。それなのに、そんな時に壁を貼ったり、掃除をしたりするものがあるか」と玄関口で怒鳴った。彼は酒に酔っていた。文子が「そんなところで酔っ払って、大声を出してもらっては困る」と注意をすると、崔圭悰は栗原と、やはり不逞社の同人である金徹がいるのを見つけ、「代々木の方に行こう」と誘った。誰も相手にせずにいると、崔圭悰はあきらめて金徹と二人でどこかへ消えた。
栗原は「叔父のところに行ってくる」と言って、富ヶ谷の朴烈の家を後にした。この頃既に、「朝鮮人が爆弾を投げている」というデマが広がっていた。栗原もそのデマを聞き避難していたが、憲兵が来て「そんなことはないから」と言うので、自分の家に戻り物置を借りて寝た。
崔圭悰は「革命はこんな時でなければ起こらない」と勇ましいことを言ったが、裁判記録によると手ぶらだったそうである。震災によって焼け出され、やけっぱちになっていただけではないか。第一、酔っ払うほど酒を飲んでいては革命にならないだろう。
彼はこの後、日本人の集団に襲われ、重傷を負って入院している。
2日に朴烈の家を出て以降、栗原が不逞社の誰かに会うことはなかった。大阪に行けば何か仕事があるのではないかと思い、大阪に行ったからだ。しかし、思うような仕事はなく、10月16日、東京に戻ってきたところを張り込んでいた刑事に拘束された。容疑は治安警察法違反。
この頃、他の不逞社のメンバーも続々と拘束されており、10月20日、栗原も含む16人が治安警察法違反容疑で起訴された。10月20日は関東大震災時に関東各地で朝鮮人が虐殺されたことに関する、新聞報道が解禁された日であった。つまり、朝鮮人虐殺を伝えるのと同じ新聞に、「不逞鮮人の秘密結社 大検挙」というおどろおどろしい見出しが踊ったのだ。これでは実際に悪事をたくらむ不逞鮮人が存在していたかのようではないか。
そもそも不逞社は秘密結社でもなんでもない。秘密結社が表を歩く人にも見えるよう、2階の壁にデカデカと「反逆」と書いたりするものか。
[参考文献]
再審準備会編集「金子文子・朴烈裁判記録」(黒色戦線社)