旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

無目的のひと、辻潤4. [『ふもれすく』より③]

 さて、「ふもれすく」は辻潤が伊藤野枝を追悼して書いた文章であるが、辻は野枝の死をどのように知ったのだろうか。

 1923年9月1日の関東大震災の発生時、辻は銭湯にいた。地震に驚いて裸で飛び出し、自宅に帰ってみると母や子ども(のちに詩人・画家となる辻まこと)は無事だったが、「家は表現派のように潰れてキュウビズムの化物のような形をしていた」という。

 辻はこの時、恋人の小島きよと同棲していて、きよは妊娠中だった。地震の被害が甚大なので、きよを郷里の広島に帰らせることにし、辻が送っていった。その後金策のため一人で大阪に行き、道頓堀を歩いている時に「号外」を見たのである。

 

 「地震とは全然異なった強いショックが僕の脳裡をかすめて走った。それから僕は何気ない顔つきをして俗謡のある一節を口ずさみながら朦朧とした意識に包まれて夕闇の中を歩き続けていた」

 

 離婚をしたから一切のつきあいが途絶えていたわけではなく、辻と野枝の長男であるまことは、子ども好きの大杉栄に可愛がられていた。まことの方も「大杉ヤのおじさん」と呼んでなついていた。大杉に連れられて、鎌倉や葉山や小田原に行くこともあったという。だが、震災のために辻の家がつぶれ、引っ越しをしたので「まこと君は大杉ヤのおじさんに連れて行かれず、そのかわり気の毒な宗一君が身代りになった」

 辻は大杉のおいの橘宗一に会ったことはなかった。だが、宗一とまことを重ね合わせて胸を痛めた。宗一の母・橘あやめの苦しみに思いを馳せ、勿論野枝のことも考えた。

「悲劇的の最後を遂げたるはまことに悲惨である。惜しむべきである。更に恐ろしいことである。お話にならぬ出来事である。開いた口が塞がらぬ程に馬鹿気たことである」と、虐殺を非難している。

 さらに辻はこんなことも書いている。

 

 「鮮人が放火人で、社会主義がバクダンで、ボルシェビキが宣伝ビラで、無政府主義が暗殺で、資本家が搾取で、プロレタリヤが正直で、唯物史観がマルクスで、進化論が猿で、大本教がお筆先で、正にあるべきはずなのが大地震だったりしては、(中略)迷惑至極な道理である」

 

 辻は属性や思想によって「十束一からげにされてはどんな人間でもやりきれない」と批判する。さらに右翼により殺された社会主義者「高尾の平公」こと高尾平兵衛に触れ、「僕は彼と社会主義の話なんか一度もしたことはなかった」が、「ただ僕は平公という人間が好きだった」と書く。

 かつて辻は、足尾銅山の鉱毒被害や政府からの弾圧に苦しむ谷中村の人たちに冷淡な態度を取り、野枝からエゴイスティックだと非難された。辻自身、「僕の生活はまことに浮遊で、自分では生まれてからまだなに一つ社会のためにも人類のためにも尽したことがない」と自己を認識している。

 だが、ここから感じられるのは、背景は違えど無残に殺されていった人たちを悼む気持である。さらには「十束一からげ」に殺すことへの怒りである。

 

 「ふもれすく」の最後で、辻は野枝のことをこのように振り返っている。

 

「野枝さんは子供の時に良家の子女として教育され、もっとすなおに円満に、いじめられずに育ってきたら、もっと充分に彼女の才能を延ばすことが出来たのかも知れなかった。もっと落ち着いて勉強したのかも知れなかった。不幸にして変則な生活を送り、はなはだ変則に有名になって、浅薄なヴァニティの犠牲になり、煽てあげられて、向こう見ずになった。強情で、ナキ虫で、クヤシがりで、ヤキモチ屋で、ダラシがなく、経済観念が欠乏して、野性的であった――野枝さん。

 しかし僕は野枝さんが好きだった。野枝さんの生んだまこと君はさらに野枝さんよりも好きである。野枝さんにどんな欠点があろうと、彼女の本質を僕は愛していた。先輩馬場孤蝶氏は大杉君を『よき人なりし』といっているが、僕も彼女を『よき人なりし』野枝さんといいたい。僕には野枝さんの悪口をいう資格はない」

 

 野枝が虐殺された後、辻は九州の新聞社から「『大杉他二名』に対する感想」を話してほしいと依頼されたことがあった。どういえばいいのかわからず、当惑して「ご推察の上、よろしいようにお書き下さい」と言ったところ、翌日の新聞に「愛憎の念が交々」という記事が載ったそうである。

 「ふもれすく」からは野枝に対する愛(未練)も憎(恨み)も感じられない。過ぎ去ったことを懐かしく思い出し、「よき人であった」と深く悼むのみである。

 

[参考文献]

辻潤「絶望の書・ですぺら:辻潤エッセイ集」(講談社文芸文庫)

倉橋健一「辻潤への愛 小島キヨの生涯」(創樹社)