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明治大正テロリズムの残滓を訪ねる5.[菊富士ホテル跡]

 燕楽軒跡で和田久太郎に思いを馳せ、菊坂通りをゆるゆると下って向かうは菊富士ホテル跡である。

 

 

 菊富士ホテルは1914年、本郷区菊坂に開業した。坂口安吾谷崎潤一郎宇野千代広津和郎正宗白鳥直木三十五竹久夢二宮本百合子湯浅芳子三木清といった人々が長逗留したことで有名だ。大杉栄伊藤野枝も泊っている。

 地下1階、地上3階で屋上には塔がついていた。玄関側から見ると3階建てだが、裏側からだと地下の食堂と塔が見えて、5階建てになるというユニークな外観だったようである。外壁は御影石とレンガの和洋折衷。客室は旧館と新館合わせて50室。洋室と日本間とがあり、洋室にはベッドが置かれていた。地下の食堂では専門のコックを雇い、西洋料理を出していた。当時としてはかなりモダンだろう。

 ホテル自体は1944年に廃業、翌45年の東京大空襲の際に建物も焼け落ちてしまった。だが、ホテルがあった場所の裏手に碑が建てられている。碑には、大杉と野枝の名も刻まれている。

 

 

 

 大杉と野枝が菊富士ホテルに逗留したのは、1916年のことである。このホテルを二人に勧めたのは大石七分という人で、大逆事件で処刑された大石誠之助の甥にあたる。

 この1916年という年は野枝が辻潤と暮らす家を飛び出し、大杉のもとへと奔った年だ。それが4月のこと。この時大杉には堀保子という妻があっただけでなく、東京日日新聞の記者・神近市子と恋愛関係にあった。そこにさらに伊藤野枝が加わり、複雑な四角関係の様相を呈する。そのことが周囲の不興を買った上に、主宰する「平民新聞」が発禁処分となり、生活は困窮。この頃大杉は麹町区の第一福四万館という下宿屋に住んでいたが、賃料が払えずに困っていた。見かねた大石が「大雑把なホテルで、当面は一文なしでも暮らせるから」と菊富士ホテルを紹介した。それが10月のこと。

 菊富士ホテルに移ってきた大杉と野枝は新館の2階、南向きの6畳間に落ち着いた。二人はホテルの浴場を貸切状態にして、いつも一緒に入浴していたようである。よく他の宿泊客が許したなと思うが、菊富士ホテルには例えばこんなエピソードが伝えられている。

 大杉たちよりは少し後の時代になるが、10年以上も逗留している客に木下好太郎という弁護士がいた。思想的には右翼で、血盟団事件の井上日昭の弁護を担当したりしているが、一方で湯浅芳子治安維持法違反で逮捕された時に当局と交渉をしたりもしている。義侠心のある、主義主張に凝り固まらない人だったのだろうと推察するが、この人が夜になると菊富士ホテルの食堂で「雑炊パーティー」なるものを開いていたらしい。

 材料はホテルの冷蔵庫や棚の中に残っているものを使う。ホテルの従業員もそれを見とがめるでもなく、逆に「そこの戸棚に何か残っていましたよ」と教えていたという。雑炊ができあがる頃になると、他の逗留客もやってきて、皆ですすりながら夜中まで様々な雑談に花を咲かせた。雑炊に使った材料費などは特に請求されなかったようである。ホテル側も鷹揚だが、客も豪胆である。このような雰囲気だから、いわゆる「世間」からは少しはずれた人が多く集まったし、居心地がよいから長期滞在したのだろう。

 1916年11月、大杉が日陰茶屋事件で神近市子に刺された後も、ホテルの住人たちは二人を受け入れた。重傷を負った大杉が包帯姿で戻ってきたのを、総出で出迎えたという。事件によって大杉と野枝は同志たちの信頼を失い、叩かれ孤立するのであるが、二人にとって菊富士ホテルは天国のような場所だったろう。もっとも、いよいよ一文無しになってしまったので、この天国にいつまでも居座ってはいられなかった。翌年3月、二人は菊富士ホテルを出る。たまった宿泊費は、大石七分が立て替えた。

 



 画像は菊坂通り沿いにある「まる屋肉店」で売られている地図。手書きの文字とイラストに味がある。次はコロッケでも買って、食べながら歩きたい。

 

[参考文献]

近藤富枝「文壇資料 本郷菊富士ホテル」(講談社