1980年に刊行された、岩田礼「天皇暗殺 虎ノ門事件と難波大助」(図書出版社)によると、難波大助が皇太子裕仁(のちの昭和天皇)を狙撃した虎ノ門事件の後、大助の父・難波作之進は「廃家届」を出し難波家は断絶した。大助の兄妹たちは姓を黒川に変えている。長男の正太郎がしばらくは家を守っていたが、間もなく友人たちと福岡県田川の炭鉱を買い取る。しかし、経営がうまく行かず今度は山口県徳山市で弁護士を開業する。1937年頃からは、満州の新京(現・長春)にあった東満州開発株式会社に勤務するようになった。この間、正太郎の妻で大助の義姉にあたるヤスという人が光市の家に住んでいたようである。正太郎も戦争が激しくなる1944年頃には戻ってきて、以後は1963年に亡くなるまで住んでいた。正太郎の死後はヤスが管理し、岩田氏が取材を行った頃には調理師の男性が借家していたという。
家は1862年、即ち向山文庫跡が開設された年の建築で、間取りは表側に八畳間が二つ、六畳間が一つ、四畳半が一つ。裏側に八畳間が二つと四畳半が一つ。裏側の八畳間の一つを大助が使っていた。
現在は家の中に入ることはとてもできないが、中の様子をうかがうことはできる。(続く)
正面から見た様子
屋根
井戸と思われる
石塀
こちらは向山文庫(難波家土蔵)。母屋よりはよい状態が保たれている。