途中、よくわからないロスタイムがあったものの、今度こそバスはバス停「寺屋敷」に到着した。運転手さんにお礼を言って降車。
バス停「寺屋敷」。確か標高650メートル。
バス停の周り
ここから7分ほど歩けば金子文子の石碑があるはずなのだ。場所は「大室(おおむれ)公民館」の奥。グーグルナビを頼りに歩く。
それにしてものどかである。見えるのは四方を囲む山と畑と、時々民家。黒くて丸々としたクマンバチが飛んでいる。野の花が咲いている。聞こえるのは鳥の声、虫の羽音、植物が風に揺れる音くらい。
誰も通らない細い道を一人でくねくね進んでいくと、前方に大室公民館。
そこを右折してさらに行くと石碑の後ろ姿が見えてきた。
思っていたより、大きな碑である。2メートル、もっとあるだろうか。表には「逢ひたるはたまさかなりき六年(むとせ)目につくづくと見し母の顔かな」という、文子の歌が刻まれている。
獄中の文子が母親・金子きくのと面会したのは、文子と朴烈に死刑判決が下った1926年3月25日のこと。きくのが文子と面会したのは、このただ一度きりである。
予審の中できくのも証人として尋問を受けているが、こんな風に言っている。
「文子は私の娘でありますが、震災の時死んだ様に聞いて居りました。娘のことですから可愛(い)に相違はありませぬが、文子の考えが大変曲がって来て居りますので、一層のことそうなって仕舞った方が宜い様に思って居りました」
この時、きくのは何度目かの結婚をしていた。娘であるからかわいいには相違ない、しかし、婚家の目もありおいそれと面会などできなかったのだろう。
文子はこんな歌も詠んでいる。
「詫び入りつ母は泣きけり我もまた訳も判らぬ涙に咽びき」
きくのは、これまで面会に来なかったことを泣きながらわびたのだろう。それを聞いて、文子もまた涙を流した。そこには母を恨む気持ちは感じられない。
石碑の裏には不逞社の同志・栗原一男の手による、こんな文章が刻まれている。
「金子文子 一九〇四年一月二五日当地に生まれる。幼にして縁戚に乞われ朝鮮に渡り世の辛酸を味わう。七年余にして帰国。上京、向学の志に燃えて正則英語学校、研数学館等を経て勉学につとめる一方、自由、社会的正義、反権力主義の思想に傾倒し同志と結ぶ。
一九二三年九月関東大震災を契機に同志朴烈らとともに逮捕さる。一九二六年三月二五日刑法第七三条に依り死刑を宣告さる。越えて四月五日減刑、無期懲役となり下獄し栃木刑務所在所中、七月二三日自死す。享年二三才 人間性の尊厳に徹し、自由を尊重し、権力主義を否定し、新時代の先駆となる」
人間性の尊厳に徹し、自由を尊重し、権力主義を否定し、新時代の先駆となる。いい文言である。
石碑の真正面には、とても鮮やかに富士山が見えていた。
実は富士山をちゃんと見るのは初めてで、成程、きれいな山だなと思ったのだけど(最初は白くて巨大なのでギョッとした)、文子の自伝「何が私をこうさせたか」には富士山のことは一言も出てこない。
代わりに出てくるのは山梨の故郷の山であり、祖母の家に住んでいた時の朝鮮の山である。
文子は自然が好きだった。祖母や叔母からすさまじい虐待を受け、自殺を考えた時もそれを踏みとどまらせたのは自然の美しさだった。
「突然、頭の上でじいじいと油蝉が鳴き出した。
私は今一度あたりを見まわした。何と美しい自然であろう。私は今一度耳をすました。何という平和な静かさだろう。
『ああ、もうお別れだ!山にも、木にも、石にも、動物にも、この蝉の声にも、一切のものに・・・』
そう思った刹那、急に私は悲しくなった」
とりわけ、山にわけ入って山菜や果実を取り、一日中遊んだ時の動植物に対する細々とした描写は写実的で実に細かく、文子の別の側面が垣間見える。
彼女は今、山に囲まれた韓国・聞慶で眠っているけれど、あの場所を気に入っているんではないだろうか。
正面に富士山
でも、文子が愛したのは村の周りの平凡な山々
石碑のすぐ近くには、自伝にも出てくる円光寺