旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

韓国聞慶・芙江旅行3.[芙江へ]

 滞在最終日、聞慶から芙江(プガン)に移動した。芙江は金子文子が9歳から16歳までを過ごしたところだ。自伝「何が私をこうさせたか」には「京釜(けいふ)沿線にある小村」と書かれているが、正確には忠清北道清州郡芙江面芙江里。現在は世宗市に編入されている。

 

Pugan

 

 文子が移り住んだ1912年には「日鮮雑居地で、かなり多くの鮮人とわずか四十家族ばかりの日人とが住んでいた」とある。無論、朝鮮人と日本人が仲よく暮らしていたのではなく、各自別々の自治体を構成しており、また日本人の中でも有力者とそうでない者とにはっきり区別されていた。有力者はまず高利貸業者、それから憲兵、駅長、医者、学校教師などで、そうでない者は商人、百姓、工夫、大工など。両階層の相互間の行き来はほとんどなかった。

 文子が引き取られた岩下家は前者の家庭だった。叔父にあたる岩下敬三郎は長野県の出身で、1898年に文子の父の妹・カメと結婚。朝鮮の鉄道の保線主任をしていたが、文子が引き取られた頃には既に退職し、山林と田畑を所有していてそこから上がる収益で朝鮮人を相手に高利貸しをしていた。岩下夫妻と同居していたのが父方の祖母の佐伯ムツで、近所の人からは「御隠居さん」と呼ばれていたが、実際には家の中の一切を取り仕切っていた。

 文子が朝鮮に引き取られたのは岩下夫妻に子どもがいないからで、祖母自らが母方の実家を訪ねてきて養子にと頼んだはずだったが、祖母は文子に冷淡だった。文子が芙江に移り住んで間もない頃と思われるが、岩下家を訪ねてきた客が文子を見て「まあ、いいお娘(こ)さんね」とほめると、祖母は「なあに、ちょっと知合いの家の子なんですよ。何しろひどい貧乏人の子なので、行儀作法も知らず、言葉なんかも下卑(げす)っぽい言葉しか知らず、ほんに赤面することがあるんですが、余り可哀相でしてね、つい引きとってやったんですよ」などと言っている。

 また、自伝には文子が芙江の小学校に通い始めた時「なあふみや、金子のような貧乏人の子なら差し支えないが、かりにもこれからは岩下家の子として学校にあがるんだ。そのつもりでしっかり勉強するんだぞ。百姓の子に負けたり、恥ずかしいことをしたりするとすぐ名前をとり上げるよ・・・」と言われたとある。誰が言ったか明記していないものの、前後の流れや言葉遣いから推察するに、これも祖母ではないだろうか。

 その小学校が芙江小学校(旧・芙江尋常小学校)である。校舎は2度ほど建て替えているそうだが、場所は今でも変わっていない。私たちが訪ねていった日は土曜日だったが、わざわざ校長先生が出迎えて下さった。40代後半か50代前半と思われる女性の校長先生だった。

 学校の創立百年を記念して出版した学校史の本では、金子文子のことが紹介されていた。彼女の学籍簿も現存しているが、今は貴重な史料ということで市の保管物となっているそうだ。見られなくて残念。

 余談ながら、あまり大きくはない街の小さな小学校なのに、フリーwifiが完備されていて流石韓国!と思った。

 

Syougakkou1

 

校舎

 

Koutei

 

校庭

 

Kinenhi

 

創立百周年の記念碑(裏)