旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

それは共感でも好意でもない8. [香椎宮③ 古宮]

 香椎宮本殿の脇を通り、裏側へ抜けると少し小高い場所に一本の樫の木が見える。

 

Kasi1

 

 これは神功皇后の夫・仲哀天皇の棺を立てかけたとされる、神木香椎(棺掛椎 かんかけのしい)だ。

 

Kasi3

 

 

 

Hurumiya2

 

 さらに石段を登ると、「仲哀天皇大本営聖蹟」と刻まれた碑が立っている。仲哀天皇熊襲征伐のための大本営を設けたのがこの地だといわれており、神功皇后三韓征伐の本拠地との説もある。皇后節子も、1922年の香椎宮参拝の際には当然ここを訪れた。

 

Tyuai1

 



 

 近くには皇太子が植樹した木もある。日付けを見ると「明治三十三年」となっているから、この皇太子とは嘉仁のことだろう。

 

Tyuai4

 

 

 天皇嘉仁の病気の平癒を祈る目的もあって訪れたと思われる香椎宮だが、その願いも空しく嘉仁は1926年12月25日に亡くなる。裕仁天皇になり、節子は皇太后となった。1930年に皇太后の新しい住まいである大宮御所が完成すると、その中に大正天皇肖像画を掲げる「御影殿(みえでん)」と呼ばれる一室が作られた。節子は午前中の長い時間をそこで過ごし、朝食も「大正天皇が食べる」までは食べなかったという。

 だからといって、節子が亡くなった嘉仁に寄り添うようにひっそりと残りの人生を過ごしたのかというとそうではない。今回のフィールドワークの参考にした原武史先生の「皇后考」によると、宮内官僚で枢密院議長であった倉富勇三郎が西園寺公望から聞いた言葉として、こんな文章を残している。


 「皇太后陛下敬神ノ念熱烈ニテ、天皇陛下ノ御体(態)度ニ御満足アラセラレズ。天皇陛下ハ、明治天皇大正天皇ノ御時代トハ異ナリ、賢所ノ御祭典等ハ大概御親祭ニテ、自分(西園寺)等ノ様ナルコトハナキモ、皇太后陛下ハ右ノ如キ形式的ノ敬神ニテハ不可ナリ、真実神ヲ敬サザレバ必ズ神罰アルベシト云ハレ居リ、此考ハ到底之ヲ教育(教育ト云ヒテハ語弊アルコトヽ云フ)スルコトハ不可能ナリ」(「倉富勇三郎日記」)


 つまり、宮中祭祀に熱心でなかった明治大正天皇とは違い、今の天皇裕仁)はきちんと祭祀を行っている。しかし、皇太后は満足せず、「形式的だから駄目」「心の底から神を敬わなければ神罰がある」と言う。何故なら、敬神の念が熱烈だからだ。これは今さら教育して変えることもできず、どうしたものか・・・と、西園寺は頭を抱えているのだ。

 西園寺はこの後、「このままでは皇太后天皇の親子関係に重大な影響を与えかねない」と吐露している。だが、こうしたことはこれが最初ではなかった。裕仁がまだ皇太子であった1922年、陸軍特別大演習のために香川に行き、摂政として天皇の代わりに行うべき新嘗祭を行わなかったことがあった。ただ行わなかっただけでない。本来ならば新嘗祭が行われる11月23日、裕仁は香川でビリヤードに興じていたのだ。このことが節子の耳に入り、節子は激怒する。久邇宮良子との結婚を控えている裕仁に対し、結婚を認める条件として来年の新嘗祭を行うことを突き付けた。新嘗祭宮中祭祀の中でも最も難しい部類に属し、夕の儀と暁の儀と合計で4時間ほどもかかる。その間それぞれ2時間に渡り、正座をしなければならない。裕仁はヨーロッパ歴訪以降和服を着なくなり、畳ではなく椅子に座る生活をしていた。このことも節子は懸念していたに違いない。

 厳しい条件を突き付けられた裕仁新嘗祭の半年以上も前である5月から練習を始め、何とかこの年の新嘗祭を行うことができた。この時節子は自身も明け方まで起きて、皇太子が無事務めを果たせたか案じていたようである。

 このエピソードからは、天皇裕仁といえども母親の皇太后節子の前では頭が上がらなかったことが察せられる。その上、裕仁のこのような努力に対しても節子は「形式的に敬っているだけだから駄目だ」というのだ。