旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

「ペルシャン・レッスン 戦場の教室」

 キノシネマ天神で、ヴァディム・パールマン監督の「ペルシャン・レッスン 戦場の教室」を鑑賞。物語は第二次世界大戦中、ドイツ兵に射殺されそうになったユダヤ人の青年・ジルが、とっさに「自分はペルシャ人だ」と嘘をついたことから始まる。兵士たちはジルを収容所に連行し、コッホ大尉に引き渡す。コッホ大尉はペルシャ語を勉強したいと考えており、語学を教えてくれるペルシャ人を探していた。ジルは自分の父はペルシャ人で、母はベルギー人だと嘘をつき、生き延びるために自分で考えた架空のペルシャ語をコッホ大尉に教え始める。だがそれは膨大な単語を考え、かつ覚えておかなければならないという記憶との戦いだった。しかもコッホ大尉は、非常に勉強熱心な生徒だった。
 こうした物語のセオリーであるが、勉強を重ねる内に二人の関係に変化が生じ始める。コッホ大尉は片言の「ペルシャ語」で自らの生い立ちを語り、詩を作ってジルに聞かせる。自分のことを大尉殿ではなく、クラウスと名前で呼ばせようとする。だが、ジルは名前では呼ばず、大尉殿と言い続ける。
 二人の関係は単に教える・教えられるだけではない。ユダヤ人であるジルは迫害され、生命の危機にさらされており、ドイツ人でナチスの将校であるコッホ大尉は生殺与奪の権利を握っている。二人の関係は対等ではなく、圧倒的に不均衡なのだ。コッホ大尉はジルに楽な仕事や食事を与えて、彼を優遇する。しかし、ジルは次第に自分だけが特別扱いされ、苛酷な労働や飢えから解放され、虐殺を免れていることに罪悪感を抱くようになる。だが、コッホ大尉にはなぜジルが罪悪感を抱くのか理解できない。
 コッホ大尉とジルは、彼らだけに通じる言語で会話をする。しかし、気持ちは決して通じ合わないのだ。
 ドイツが戦争に敗れた物語の終盤、ジルが本当に覚えてきたものが明らかになる。その重みの前に、言葉を失う。