ドイツ兵俘虜慰霊碑は、JR南久留米駅から歩いて20分ほどのところにある。慰霊碑のほか旧陸軍に関係する戦跡がいくつか残っているので、それらも併せて訪ねてみた。
まず、歩いていると唐突に「忠霊鎮護之地」と刻まれた石碑が見えてくる。大きくカーブした道の両脇には鬱蒼と木が生い茂っており、神社の参道のような印象を受けたが、事実、ここは以前は参道だった。
現在は久留米競輪場の敷地となっているが、ここには久留米市民の勤労奉仕によって造成された陸軍墓地があった。石碑の後ろに見える石灯籠は、靖国神社の大灯籠を模したものだという。この参道を進んでいくと、様々な戦跡にたどり着く。
①ドイツ兵俘虜慰霊碑
1914(大正3)年10月の青島要塞陥落ののち、俘虜(捕虜)となって久留米収容所に収監されたドイツ兵は、最も多い時で1319名に達するが、不幸にして11名が故郷に帰ることなく久留米の地で亡くなっている。2名は戦闘時に受けた負傷によるもので、残りの9名は収容中に結核などの感染症にかかったためだ。
慰霊碑はドイツ兵たちが帰国の際に作ったものと思われる。ドイツ語で刻まれているのは亡くなった人たちの名前と、「運命の力により剣を奪われ、捕らわれの人となり、黄泉の国に去った汝ら」「故郷はるか遠くに逝った同志たちの思い出のために」という文言だ。
傍らに立っている菩提樹は、1998年に植樹されたドイツ産のもの。少しでも慰めになっているだろうか。
②円形野外講堂
林の中を進んでいくと突然これが現れるのでびっくりする。現在は半円形になっているが、もとは直径22メートルに及ぶ円形の野外講堂だった。約500名を収容でき、ステージの裏には楽屋があったようだ。このような施設は全国的に見ても他に例がなく、貴重なものだという。
1942(昭和17)年4月に行われた忠霊塔の竣工式と慰霊祭では、地元の女子青年団による奉納舞踏がここで上演された。
ステージ中央に掲げられた額には、「養其神(そのしんをやしなう)」と書かれている。
③遥拝台
円形野外講堂から坂道をのぼっていくと、いきなりヌッとそびえている。陸軍墓地の中で最も標高の高い場所に建てられた。宮城(皇居)に向かって遥拝、つまり拝礼をするために作られたものだ。
高さ4.8メートルで、中にらせん階段がある。(現在は入ることはできない)
実際にどのくらいの頻度で、ここで遥拝が行われていたのだろうか。気になるところである。
④忠霊塔
これこそ陸軍墓地の要なのだが、見つけられず。「忠霊塔前子供広場」というのがあったが、その広場の中にあるのだろうか。
ちなみに「忠霊塔」と「忠魂碑」の違いは納骨のあるなし。遺骨が納められているのが忠霊塔、納められていないのが忠魂碑だ。
日本全国で忠霊塔の建立が始まったのは1930年代後半、つまり日中戦争が勃発し、戦死者が増大し始めた時期である。(忠魂碑はもっと古くて、日露戦争の時に外地で戦死した死者を顕彰するために建立され始めた)
福岡出身の陸軍少佐・桜井徳太郎という人が、福岡市の谷陸軍墓地が荒廃していることを見かね、改修工事を行ったのがのちの忠霊顕彰運動につながった。「忠霊奉戴、一日戦死(一日戦死をしたつもりで、所得と労働を忠霊塔建設に捧げる)」のスローガンを掲げ、陸軍主導で行われた運動だ。
そういうものを、正直そんなに見たいとも思わないので、熱心に探すことはしなかった。
⑤陸軍橋
1942(昭和17)年に竣工されたもの。アーチ形の美しい石橋だが、名前が「陸軍橋」とは風情も何もない。
陸軍橋を渡ると、道の両側に石灯籠がずらりと並んでいる。
私はドイツ兵俘虜慰霊碑→円形野外講堂→遥拝台→(忠霊塔)→陸軍橋と、ぐるりと一周するように見て回ったのだが、JR南久留米駅から歩く時間も含め1時間半ほどのコースだ。行ってみるまで、こんなにいろんなものがこれほど密集しているとは思わなかった。坂の上がり下がりが結構あるし、夏になると蚊などの虫も出てくるだろうから、涼しい時期に行くのがおすすめ。
久留米には他にもまだ戦跡があるので、いずれそちらも訪ねてみたい。
[参考資料]
「歴史散歩No.23 平和への願い・久留米の戦争遺跡(2)」
https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080kankou/2015bunkazai/3050kurumeshishi/files/historywalk23.pdf
「歴史散歩No.11 ドイツ兵俘虜の足跡をたずねて」
https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080kankou/2015bunkazai/3050kurumeshishi/files/historywalk11.pdf