旅と映画

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久留米とドイツ兵1. [軍都としての久留米]

 一度ゆっくり訪ねてみたいのだけど、なかなか叶わずにいるところの一つに、久留米がある。福岡県の南部、筑後平野に位置する久留米市は、私が住んでいる福岡市から西鉄電車の特急に乗れば30分。筑後川がゆったりと流れ、文化の香りがする素敵な街である。仕事ではしばしば行くけれど、プライベートでは行く機会を持てずにいた。しかし、今回私用で行くことがあり、ついでに前々から気になっていた場所を訪ねてみた。「ドイツ兵俘虜慰霊碑」がそれである。久留米にドイツ兵?

 

 久留米市が誕生したのは1889(明治22)年4月1日。日本最初の市町村制度施行によるもので、この時制定された全国31都市の中で一番小さな市だった。近い将来の発展を見越しての認可だったが、産業に乏しく、財政状況は厳しかった。

 風向きを変えたのは日清戦争である。戦争に勝利し、莫大な賠償金を手にした日本政府は、各都道府県に一個の連隊を置くほどの大規模な軍備拡張を始めた。これにより、兵営誘致のための運動が各地でわき起こる。一個連隊あたりの兵士の数は2千人。それだけの人数が駐屯するのだから、当然地域経済は活性化する。また、この時期には駐屯する連隊を、自分たちの「郷土部隊」として歓迎する国民意識も醸成されていった。

 久留米では官民挙げての熱心な誘致運動が実を結び、1897(明治30)年、三井郡国分村(現・久留米市国分町)に歩兵第48連隊が移駐し、第24旅団司令部、久留米衛戍病院が設置された。なお同年、それまで久留米にはなかった遊郭の設置が初めて認可され、翌年から営業を始めている。兵士たちが客となることを見越してのものである。

 日露戦争が始まると第48連隊は中国東北部に出動し、1905(明治38)年4月から翌年2月まで、国分村にはロシア兵俘虜(捕虜)を収容する「久留米俘虜収容所」が設置された。

 1907(明治40)年には第18師団が、翌1908(明治41)年には習志野・東京から騎兵第22連隊、熊本から野砲兵第24連隊、小倉から独立山砲第3大隊などが移駐してきて、久留米は軍都としての規模を拡大していく。

 1914(大正3)年、第一次世界大戦が始まると日本はドイツに宣戦布告し、ドイツの拠点である青島要塞を攻撃した。この時、主力となったのが久留米の第18師団を中心に編成された独立第18師団だった。激戦の末、1914(大正3)年11月、青島が陥落すると、総勢4791名のドイツ兵が俘虜となり、この内446名が久留米俘虜収容所に移送された。久留米駅前には一目彼らを見ようとする群衆が詰めかけ、大変な混雑だったという。

 

[参考資料]

「歴史のまち久留米ストリートシート4 軍の記憶-久留米の戦争遺跡を訪ねて-」 https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080kankou/2015bunkazai/3050kurumeshishi/2019-1031-1534-280.html

林博史・原田敬一・山本和重編「地域のなかの軍隊9 地域社会編 軍隊と地域社会を問う」(吉川弘文館