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久留米とドイツ兵2. [俘虜収容所での生活]

 1914(大正3)年10月、久留米にドイツ兵俘虜(捕虜)を収容するための収容所が設置された。全国で最初に設置された収容所である。所長は樫村弘道が務めた。

 京町の梅林寺、日吉町の大谷派教務所・事務所、篠山町の香霞園、三井郡上荒木(こうだらき)村の高良大演習敞舎を総称して「久留米俘虜収容所」と呼ばれた。ちなみに梅林寺は久留米藩主有馬家の菩提寺で、香霞園は久留米城二の丸跡にあった料亭だ。

 1915(大正4)年、各地に分散していた収容所をまとめることになると、福岡収容所から132名、熊本収容所から645名が移送されて総勢1319名、全国一の規模に膨れ上がった。敷地一杯にバラック16棟と調理場、事務室、風呂などが密集し、衛生面にも問題があった。

 1915(大正5)年5月、新しい所長として赴任してきたのが真崎甚三郎である。のちの二・二六事件で、青年将校らの反乱をほう助した容疑で軍法会議にかけられる人物だ。

 もともと収容所は第48連隊、旅団司令部、衛戍病院などの軍事施設に隣接しており、俘虜と日本兵の間でトラブルが頻発していた。そこに起きたのが、真崎所長の殴打事件である。

 1915(大正4)年11月15日、大正天皇の即位を記念して、俘虜たちにビールとリンゴが配られた。ところが、二人の俘虜が「本国政府の許可なく、他国政府からの贈り物を受け取ることはできない」と、受け取りを拒否した。これを皇室への侮辱と捉えた真崎所長が、激高して二人を殴りつけたのである。

 俘虜たちは、所長の行為はハーグ条約で禁止されている虐待にあたると抗議し、陸軍敞宛ての嘆願書を提出した。さらに米国大使館に職員の派遣を依頼する電報の発信を求めたが、真崎所長がこれを許さなかった。

 だが11月26日、面会に訪れた俘虜の家族が「米国大使館に出頭して、殴打の件をハーグ条約違反として訴える」と迫ったため、やむなく真崎所長は27日付で陸軍次官あてに始末書を送付した。

 これを受け、陸軍省法務局は「所長の行為は失態の観は免れないが、酌むべき事情がある」「俘虜の言動は不敬罪にはあたらない」という見解を示している。なんとも煮え切らない印象だ。

 1916(大正5)年3月、米国大使館三等書記官サムナー・ウェルズが収容所を視察に訪れた。ウェルズは環境や待遇に問題があることを指摘し、改善の必要性を訴えている。しかし、その後も大きな改善はされなかったようであり、ウェルズは同年12月にも再調査に訪れているが、「問題点が改善されていない」と苦言を呈している。

 

 1916(大正5)年11月15日に真崎所長が転出すると、後任でやってきたのは林銑十郎だった。のちに陸軍皇道派の巨頭となる真崎の後任が、統制派の林だったのだ。

 林所長も俘虜を厳しく管理したが、スポーツ大会の開催や遠足、畑での野菜の栽培などを許可した。クリスマスを祝うことも認めている。

 1918(大正7)年11月11日、連合国とドイツの間で休戦協定が結ばれると、翌年1月からベルサイユ講和会議が始まった。この頃、俘虜たちは日本足袋(現・株式会社アサヒコーポレーション)、つちや足袋(現・月星化成株式会社)などの工場・会社で働き始める。アサヒコーポレーションや月星化成は、今でも地元産業を牽引する存在だ。

 10月には畑を整地して運動場が完成。音楽会や演劇の上演も、定期的に行われるようになる。1918(大正7)年11月の第3回久留米美術工芸品展会には、多くの俘虜作品が出展された。

 1919(大正8)年6月のベルサイユ条約調印後、俘虜たちの帰国が始まる。別れを惜しんでか、12月に久留米高等女学校で独演会、恵比寿座で「独逸人演芸会」が行われた。俘虜たちと久留米市民の間に、交流が生まれていたのだ。

 12月から翌年1月にかけ、暫時俘虜たちは開放されていった。1920(大正9)年1月26日に最後の118名が帰国すると、役目を終えた久留米俘虜収容所は、3月12日に閉鎖された。

 

[参考文献]

久留米市教育委員会編「久留米俘虜収容所 1914~1920」

同「ドイツ軍兵士と久留米 -久留米俘虜収容所Ⅱ-」