旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

それは共感でも好意でもない3. [産む機械]

 1900年5月、九条節子(さだこ)は皇太子嘉仁(後の大正天皇)と結婚し、皇太子妃となった。だが、その新婚生活は順調なものではなかった。例えば結婚からわずか2ヶ月ほどしかたっていない1900年7月、嘉仁は神奈川県の大磯にあった、旧佐賀藩主で公爵の鍋島直大の別邸を訪れている。大磯の別邸には直大の娘鍋島伊都子がいた。直大が駐イタリア王国特命全権公使だった時に、イタリアの都ローマで生まれたから「伊都子」という。それだけでもう洒落ているが、その上に雑誌のグラビアを飾るほどの評判の美人だった。現在残っている写真を見ても、洋装がすっきりと板についており、洗練された華やかな印象を受ける。

 一方の節子は、嘉仁とともに日光の田母沢御用邸に行く際、嘉仁が洋装をさせようとしたのを嫌がり、ひと悶着あったりしている。よりにもよってその騒動の数日後にも、嘉仁は鍋島別邸を再び訪ね、伊都子と親しく言葉を交わしているのだ。それから間もなく、節子は嘉仁を置いて一人で帰京している。父親の九条道孝が危篤との報を受けてであるが、新婚の夫が度々別の女性、しかも自分とは全く違うタイプの女性のもとを訪ねることをどう思っていただろう。プライドが大きく傷つくできごとではなかったか。

 それでも、結婚の翌年1901年4月には、節子は第一子である裕仁(後の昭和天皇)を生む。期待されていた男児が生まれ、万事めでたしかと思いきやことはそう単純ではなかった。まず、節子が裕仁を出産した時、嘉仁は宮中にいなかった。葉山の御用邸にいたのである。我が子と初めての対面を果たすのは、それからさらに4日後だ。この辺りの事情はよくわからないが、ひどく無関心な態度に見える。

 また、宮中では「清(きよ)」と「次ぎ」が厳密に区別されていた。清とは清浄、次ぎとは不浄のことである。1909年から14年まで出仕していた、元女官の山川三千子の回想によると、人の体も上半身は清で下半身は次ぎといった具合に区別されており、「足袋や靴下をはけば、そのつど手を洗わなければならなかった」というから徹底している。本来めでたいことであるはずの出産も、清ではなく生理と同様、次ぎであった。宮中独特のこうしたしきたりにも、節子はとまどいを感じただろう。

 裕仁は生後70日で伯爵川村純義の里子に出される。節子自身も4歳まで里子に出されており、そのこと自体は宮中に限ったことではない。だが、1900年11月に梨本宮守正と結婚し皇族になった伊都子は、第一子は乳母を雇い入れ、第二子は「自信がついたから」と自分で育てている。

 男児を生むことを求められながら出産は不浄として扱われ、生んだ子どもを自分の手で育てることもできない。自分は何のために結婚し、何のために子を産むのか。ほどなく節子は第二子を妊娠するが、喜びはなく抑うつ状態に陥っていく。その節子に手を差し伸べたのが、華族女学校の学監である下田歌子だった。

 下田はふさぎこむ節子に対し、目指すべき皇后像として神功皇后の名を挙げる。神功皇后とは、4世紀頃にいたとされている第14代天皇仲哀天皇の皇后で、仲哀天皇の死後、女性の身でありながら兵を率いて朝鮮半島に渡って新羅を征し、百済高句麗朝貢を約束させた、いわゆる「三韓征伐」を行ったとされる人物である。朝鮮半島に渡った時応神天皇を妊娠しており、帰国後に出産してそののち69年の長きに渡り摂政を務めたと言われている。自分の存在意義がわからなくなっていた節子は、「このような皇后もいたのだ」と強く励まされる思いがしたのではないか。神功皇后に深く心を寄せるようになっていく。

 

参考文献

原武史「皇后考」(講談社学術文庫

原武史「日本政治思想史」(放送大学テキスト)

山川三千子「女官 明治宮中出仕の記」(講談社学術文庫

梨本伊都子「三代の天皇と私」(もんじゅ選書)