旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

明治大正テロリズムの残滓を訪ねる1.[超国家主義の足跡]

 緊急事態宣言が明けた10月、久しぶりに関東を訪ねた。今回の行き先は東京の本郷と山梨県甲府。本郷に行こうと思ったのは、まだ東大の赤門を見たことがないからという単純な理由だったが、実にみどころの多い街だ。一つには、菊坂界隈を中心にたくさんの文士が住んでいたこと、もう一つには憲兵に虐殺された大杉栄らの仇を討とうと、和田久太郎と村木源次郎が陸軍大将・福田雅太郎の暗殺を図ったのもやはり本郷であるなど、歴史の現場も多い。

 そのような本郷の歴史を調べていく内、浮かび上がってきた名前があった。朝日平吾である。

 朝日平吾といっても、ピンと来ない方もいるかも知れない。朝日は1921年9月28日、安田財閥創始者安田善次郎を刺殺したテロリストだ。犯行当時は労働運動を行っていたが、その前には大陸浪人として朝鮮半島中国東北部を転々とし、日本に戻ってからは天皇を崇敬する立場から民族主義団体を立ち上げたりしている。労働運動を行っていても、思想的にはアナキストの和田や村木とは異なる立場であり、黒龍会内田良平と親交があった。労働運動に関わったのも労働者を善導し、天皇を中心とする一君万民の平等社会の実現を目指すことが目的だった。

 性格は粗暴で協調性に欠ける部分があり、対人トラブルを起こすことが多かった。世の不平等に対する怒りは強かったが、物ごとに地道に取り組むということが不得手だったようで、事業を起こしたり仏教の修行に入ったり、色々なことに挑戦するがいずれも失敗。社会への不満を募らせ、それがいつしか富者へと向かい、安田を刺殺するに至ったと見られる。手帳によく書きつけていた言葉は「不愉快」。安田を刺殺した後、その場で自らののどをカミソリでかき切り、自殺した。

 何とも共感の抱きにくい人物だ。目指したところは誰もが平等に生きられる社会であるが、その中心となるのが天皇であるという主張には私は賛同しかねる。暗殺という手段にも、当然ながら同意できない。

 犯行に際し、朝日は「死ノ叫声」という遺書を書き遺していた。末尾の日付は大正10(1921)年9月3日。この日はヨーロッパを歴訪していた皇太子裕仁(のちの昭和天皇)が帰国した日である。9月8日に東京の日比谷公園、13日に京都の平安神宮太極殿で奉祝会が行われると、それぞれ3万人超の市民が参加して皇太子の帰国を熱烈に歓迎した。朝日も皇太子の帰国に胸を熱くしたに違いない。

 朝日は「日本臣民ハ朕ガ赤子ナリ」という明治天皇の言葉を引用し、日本はこのような歴代天皇の大御心によって統合されてきた神国であるとする。しかし、「君側ノ奸」が自らの利権のために大御心を奪い利用しており、赤子たる臣民は貧困や差別にあえいでいる。

 朝日は「真正ノ日本人」である自分には、天皇の赤子として栄誉と幸福を享受する権利があると主張する。国民の和合と協力により、天皇と一視同仁の善政が行われればその恩沢によって平等な社会が実現すると説く。その邪魔をしているのが私利をむさぼり、不浄財を蓄えている富豪であり、元老政治家であり、華族であり、軍人である。そして、彼ら「君側ノ奸」が光輝ある国体を破壊し、聖慮を冒涜し、我ら臣民と天皇とを引き離していると憎しみを募らせた。朝日にとって富豪や政治家は憎むべき敵であり、天皇を取り戻して一体となるために打倒すべき相手だった。彼はこう呼びかける。


 「黙々ノ裡ニタダ刺セ、タダ衝ケ、タダ切レ、タダ放テ、シカシテ同志ノ間往来ノ要ナク結束ノ要ナシ、タダ一名ヲ葬レ、コレスナワチ自己一名ノ手段ト方法トヲ尽クセヨ、シカラバスナワチ革命ノ機運熟シ随所ニ烽火揚リ同志ハタチドコロニ雲集セン」


 同志として結束する必要はない。一人でただ刺せ、ただ衝け、ただ切れ、ただ放て。一人が一人の奸富を殺せ。そうすればおのずと革命は成就する。

 朝日のこうした主張は、「一人一殺」として血盟団事件の井上日昭に引き継がれ、君側の奸を取り払おうとする二・二六事件へと結実する。それは明治以来の伝統的国家主義とは異なる新しい国家主義、即ち「超国家主義」の台頭だった。その端緒を開いたのは朝日であり、彼が遺書「死ノ叫声」を書いた時に住んでいたのが本郷だった。

 

[参考文献]

中島岳志朝日平吾の鬱屈」(筑摩書房

橋川文三編「現代日本思想体系31 超国家主義」(筑摩書房

原武史「日本政治思想史」(放送大学教材)