旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

特に目的のない旅4.[磯部浅一と朝日平吾]

 磯部浅一の墓は、墓地に入ってすぐのところにあった。
 墓を訪ねたのは、彼の思想や行動に共感や賛同するところがあるからではない。以前、1921年安田善次郎を刺殺した朝日平吾の下宿跡や墓を訪ねたことがあったが、この時も、朝日の思想や行動に共感、賛同するところがあったわけではない。
 朝日が安田を刺殺したのは、自身の生きづらさの原因を「君側の奸」に求めたからだった。天皇が統治する国に生まれた日本人である自分には、天皇の赤子として栄誉と幸福を享受する権利がある。ところが君側の奸、即ち天皇に取り入り、私利私欲をむさぼる富豪や元老がそれを邪魔している。天皇を、正しい国体を取り戻すためには奴ら奸富を殺すしかない。そう考え、憎むべき敵の象徴的存在である安田財閥創始者を刺殺したのだ。
 二・二六事件が起きたのは、それから15年後の1936年。陸軍の中の皇道派に属する青年将校らがクーデターを決行、首都の中枢を占領して首相官邸や大臣の私邸、警視庁、新聞社などを襲撃し、斎藤実内大臣高橋是清大蔵大臣、陸軍大将の渡辺錠太郎教育総監を暗殺した。
 この青年将校らもまた、「君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我らの任として能く為すべし」と考えていた。蹶起趣意書を読むと、元老や軍閥、官僚といった「不逞凶悪の徒」により、国体が破壊されていることへの怒りや、破滅を防ぐためには自分たちが今、決起するしかないという使命感があふれている。だが、「殉国捨て身の奉公」をしてきたつもりの彼らの行動は、天皇の激しい怒りを買う。戒厳令の発令によってクーデターは鎮圧され、軍事裁判の末16名が処刑された。磯部もその中の一人である。
 朝日にせよ、磯部にせよ、行動の根底にあるのは「この国をもっとよくしたい」との思いだった。その気持ち自体は、否定されるものではないだろう。しかし、彼らはその手段としてテロやクーデターという暴力を用いた。その結果、どうなったか。
 朝日の事件の後、右翼のテロを恐れた財閥や企業は、右翼団体に資金援助を行うようになった。そうすることで、テロの標的になるのを免れようとしたのである。朝日の思いとは裏腹に、奸富たる資本家階級と右翼活動家たちは結びつきを強めていった。
 また、青年将校らがクーデターを起こしたために、皇道派は陸軍中枢から追放された。対立する統制派が力を強めて広田弘毅内閣が誕生、軍部大臣現役武官制を復活させ、軍が国家権力を掌握する端緒を開いていったのはよく知られる通りである。日本はアジアに多大な犠牲を強いながら、破滅への道をひた走ってゆく。
 暴力に訴えることは、その時は強いインパクトを与える。しかし、それゆえ代償もまた大きい。1920年代から30年代に頻発したテロは、治安を悪化させ社会不安を増大させた。国をよくしたいとの意図とは逆方向に作用したのである。私たちは同じ轍を踏むべきではない。

 

Isobe1

 

 

 

朝日平吾の下宿跡や墓を訪ねた時の記録はこちら

明治大正テロリズムの残滓を訪ねる1.[超国家主義の足跡]

明治大正テロリズムの残滓を訪ねる2.[東京駅 浜口雄幸遭難現場]

大正テロリズムの残滓を訪ねる6.[安田講堂、朝日平吾下宿跡]

明治大正テロリズムの残滓を訪ねる7.[煩悶青年とテロリズム]

 

[参考文献]
山本又「二・二六事件蹶起将校 最後の手記」(文藝春秋
筒井清忠二・二六事件とその時代 昭和期日本の構造」(ちくま学芸文庫
森川哲郎「昭和暗殺史」(毎日新聞社