宮下太吉は1875年、山梨県甲府市で生まれた。墓も甲府市内の光澤寺にある。小学校を出たのち、16歳で機械工見習いとなる。東京、大阪、神戸、名古屋などの工場を渡り歩き、愛知県亀崎の工場で働いていた1902年頃から社会主義に関心を持つようになった。
1908年、内山愚童が赤旗事件に抗議して秘密出版した小冊子「入獄記念・無政府共産・革命」を読んで、強い感銘を受ける。この小冊子の中で内山は「一口に歌つてみれば、何故にお前は貧乏する。ワケを知らずば聞かしようか。天子・金持・大地主、人の血を吸うダニがをる」と、支配階級を痛烈に批判していた。
とりわけ宮下の心を揺さぶったのは、天皇制に対する批判であった。宮下は亀崎で労働者の共済組合を組織していたが、天皇制が運動への大きな障害になっていると感じていた。社会主義にオルグするために政府や役人を批判すると、比較的すんなりと受け入れられるのに、こと皇室への批判になると、相手が「我が国は外国とは国体が違う」などと言い出し、耳を貸さないことが続いていたからだ。
内山の主張に共感した宮下は、大胆な行動に出る。明治天皇の乗った御召列車を奉迎するために集まっていた人たちに、「天皇陛下なんて、ありがたいものじゃありませんよ」と言いながら小冊子「無政府共産」を配ったのだ。宮下は「我が国人民の皇室に対する迷信を解くには、爆裂団を作って天子に投げつけ、天子も我々と同じ血が出る人間であることを知らしめなければならない」と考えた。
しかしながら、宮下の主張は天皇を奉迎しに集まっていた人たちには全く響かなかった。それどころか、組合活動はこれをよく思わない会社に妨害され、内縁の妻との関係も悪化。宮下は昔の上司を頼り、長野県明科の製材所に転職する。
1909年、仕事の出張の途中で東京の平民社に立ち寄り、幸徳秋水に爆裂弾を投げる計画を打ち明けた。しかし、幸徳からははっきりとした返事はなかった。賛同したのは管野須賀子と新村忠雄、それから古河力作である。ただし、宮下と古河は一度も直接顔を合わせていない。
宮下は百科事典などの書物にあたって爆裂弾の製造法を調べ、材料を入手して試作品を作った。山中で実験したのち、1909年の大みそかに再び平民社を訪ねる。明けて元日、宮下、管野、新村、幸徳の4人で空き缶を爆裂弾に見立て、代わる代わる投げてみたりしているが、これはおとそ気分が手伝ってのものではなかったか。特にまとまった相談もしていないようである。また、5月17日、この日は宮下抜きで管野、新村、古河の3人で、管野が間借りしている家で「誰が爆裂弾を投げるか」をくじ引きで決めている。
この日3人が集まったのは、管野が編集発行人であった雑誌「自由思想」が度重なる発禁処分や罰金を受け、その換金刑に服すため翌日から管野が入獄することになっていたからだ。管野は前年の7月にも新聞紙法違反などで東京監獄に収監されているが、苛酷な獄中生活で体調が悪化し、9月に出獄してからもしばらく臥せっていた。
新村たちは管野を、ロシア皇帝アレクサンドル2世を暗殺したソフィア・ペロフスカヤに例え、管野が出獄したら計画を実行しようと話していた。彼らが直接行動による革命を考えていたことは事実であるが、この日爆裂弾投擲の順番を決めたのは、生きて戻れないかも知れない管野を励ます意が強かったのではないか。そもそも管野の入獄自体、官憲からの弾圧によるものである。
その入獄から7日後の5月25日、宮下が製材所に隠していた爆裂弾の材料が警察により押収され、宮下は逮捕される。そこから芋づる式に、宮下とは一面識もない古河、計画に賛同していなかった幸徳他、何ら関与していない人々が次々に逮捕され、26人が「国賊」として大逆罪で起訴される。政府が社会主義者を弾圧するためにでっち上げた大規模な冤罪事件により、12人が処刑され、14人が無期刑や有期刑に処せられた。高木顕明のように獄中で自死した人もいる。
宮下は1911年1月24日に処刑された。絞首台に登り、「無政府党万歳」と叫ぼうとしたが、執行する看守が慌てて機車を動かしたため、みなまで叫ぶことはできなかった。
光澤寺にある墓の傍らには、1972年に宮下太吉建碑実行委員会が建てた石碑が立っており、表には「我にはいつにても起つことを得る準備あり」と刻まれている。事件が社会主義者への弾圧ではないかと一早く気付き、評論を書くことで幸徳らを弁護しようとした、石川啄木による詩「果てしなき議論の後」の一節だ。
[参考文献]
神崎清「大逆事件2 密造された爆裂弾」(あゆみ出版)
管野須賀子研究会編「管野須賀子と大逆事件 自由・平等・平和を求めた人びと」(せせらぎ出版)