旅と映画

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大逆事件と関西2.[管野須賀子生家跡]

 サミットが開催されるのは神戸だが、まずは大阪をぶらり。大逆事件で刑死した、唯一の女性である管野須賀子の出身地が大阪なのだ。

 管野は1881年6月7日、大阪の絹笠町(現・大阪市北区西天満2丁目)に生まれた。父親の義秀は管野が生まれた時は鉱山事業家だったが、もとは武士であり、維新後に裁判官や代言人(弁護士)をしていた時期がある。管野が生まれた家は裁判所の近くで、現在も大阪高等裁判所が建っている。

 この威圧感のある大きな建物を管野が見たら、何を思うだろうか。

 

Kannoseika

 

 さて、大阪で生まれた管野は父親の事業の都合で東京、愛媛、大分などを転々とした後、1898年17歳の時に自活を求めて単身上京する。苦学して医業を志そうとしたが、父親に懇願されて小宮福太郎という男性と結婚する。一説には父親の事業の失敗を埋め合わせるためとも言われている。小宮家は裕福な商家だったが、なじめずに離婚。1902年、「大阪朝報」の記者となる。まだ女性の新聞記者などほとんどいなかった時代である。翌年には三面の主任に抜擢されている。「大阪朝報」はほどなく廃刊になるが、その後も文章は書き続け、1906年には紀州田辺(現・和歌山県田辺町)の「牟婁新報」の記者となった。

 「牟婁新報」で管野は、女性の権利や解放を主張する記事を度々書いている。例えば、こんな調子である。

 「起てよ婦人。

 起つて諸君が団結して、肘鉄砲の一斉射撃をせられなば、男子は立ちどころに降伏して、卿等の足下にひれ伏し、泣いて哀を乞ふや必然なり。

 結婚を急ぐ勿れ、売買結婚に甘んずる勿れ、而して己れの修養に勉めよ。

 斯くて始めて、理想の家庭をつくる得べし。

 奮起せよ婦人、磨け肘鉄砲を」

 勇ましい。だが、ユーモアがあって痛快だ。一見、男性を悪者あつかいしているようにも読めるが、そうではなく、管野は女性が結婚して夫の世話に追われ、新しい知識や社会への関心を失うことを批判しているのだ。こんなことも書いている。

 「一朝結婚すると忽ち、愛読の書に塵が積もり、婦人雑誌が封のまゝで重ねられ、遂には新聞さえ禄に眼を通さないと云ふ様に成つて、新智識無く、理想消え、時事の話一つ出来ない世話女房と成つて了うのであります」

 管野は女性が男性の所有物にならず、自らの足で立って生きていくことを呼びかけた。そして男性と対等の関係を築くことを理想とした。このような管野の思想は、21世紀を生きる私たちにもうなずけるものではないだろうか。

 

 管野須賀子というと、未だ一般的には「妖婦」「悪女」というイメージが根強い。多くの男性と浮名を流し、妻のあった幸徳秋水と恋愛関係になった、妖艶で男を手玉に取る女――というようなものだ。

 しかし、「多くの男性との浮名」は根拠の乏しい噂に過ぎないものであり、出所不明の風聞に管野自身が悩まされていた。幸徳との恋愛も、二人が結ばれたのは幸徳が妻の千代子と離婚した後のことであり、何ら非難される筋合いのものではない。だが、当時の新聞は管野のことを幸徳の「情婦」と書きたてた。警察による情報操作であるが、女性を貶めるのに性的なスキャンダルが流布されるのは現代でもよくあることであり、卑劣で腹立たしい。

 堀和恵著「評伝 管野須賀子 ~火のように生きて~」によると、「牟婁新報」で記事を書いていた頃の管野は「当時流行の二百三高地巻の髪型で、紫の袴を身に着け、足元は靴という和洋折衷のハイカラなファッションだった。そして田辺の町を颯爽と取材で闊歩した」という。まだ女性の職業が限定され、働くにしても男性よりずっと低く扱われていた時代、男女平等を掲げる新聞記者・管野の姿はどれほど輝いて見えただろう。

 このような管野をこそ、もっと知ってほしいと思う。

 

[参考文献]

堀和恵「評伝 管野須賀子 ~火のように生きて~」(郁朋社)

管野須賀子研究会編「管野須賀子と大逆事件 自由・平等・平和を求めた人びと」(せせらぎ出版)