旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

管野須賀子の墓

 金鳳山平林寺に前田卓(つな)の墓を訪ねたのは1月23日。翌24日は、幸徳秋水大逆事件の犠牲者が処刑された日である。社会主義者無政府主義者への大規模な弾圧である大逆事件は、1911年1月18日に死刑判決が出たわずか6日後に、異例のスピードで刑が執行された。刑死したのは幸徳秋水、管野須賀子、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、森近運平、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童の12名。男性11名が1月24日、女性の須賀子だけは25日に刑が執行された。須賀子の命日には一日早いが、東京滞在最終日、新宿の正春寺に須賀子の墓を訪ねた。

 須賀子の墓を訪ねるのは何度目かであるが、この日は誰かが墓の前に須賀子の写真を飾っていた。

 

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 ところで、管野須賀子といえば、これまで性に奔放な「悪女」「毒婦」のイメージで語られることが多かった。だが、最近の研究では秋水と恋愛関係になったのは秋水が妻と離婚した後であることや、多くの男性と浮名を流したのは事実ではないことがわかってきている。須賀子の悪女イメージは、彼女の死後に元夫・荒畑寒村の一方的な「回想」によって作られた部分が大きい。

 その須賀子自身は獄中日記「死出の道草」の中で、寒村のことをこのように書いている。

 「寒村は私を死んだ妹と同じように姉ちゃんといい、私は寒村をあつ坊と呼んでいた。同棲していても夫婦というよりは姉弟といった方が適当のような間柄であった。ゆえに夫婦として物足りないという感情が、そもそもの二人を隔てる原因であったが、その代りにまた別れての後も姉弟同様な過去の親しい愛情は残っている。私は同棲当時も今日も彼に対する感情に少しも変わりがないのである」

 須賀子は獄中で寒村と過ごした日々をなつかしく思い出し、自分とわかれていたために寒村が大逆事件に巻き込まれなかったことを安堵していた。須賀子はこうも書いている。

 「私は衷心から前途多望な彼のために健康を祈り、かつ彼の自重自愛せん事を願う」

 「死出の道草」は、須賀子が死刑判決を受けた1月18日から刑が執行される前日24日までの短い記録である。冒頭に「死刑の宣告を受けし今日より絞首台に上るまでの己れを飾らず偽らず 自ら欺かずきわめて率直に記し置かんとするものこれ」とある。

 須賀子は多くの人が濡れ衣を着せられ、冷酷にも死刑判決を下されたことに激しく怒っていた。彼らを救うためなら、自分はどんな残虐な刑を受けてもいいと書いている。反面、やがて来る時に向け、淡々と身辺整理を行う傍ら、英語の勉強を続けている。堺利彦の娘で、まだ幼い真柄に宛てた手紙は限りなく優しい。

 この日記を、せめてもう少し長く読みたかった。

 

[参考文献]

尾崎秀樹編「現代日本記録全集12 社会と事件」(筑摩書房