旅と映画

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大逆土佐日記6.[幸徳秋水、坂本清馬の墓]

 「幸徳秋水非戦の碑」が建立された正福寺には、秋水と坂本清馬の墓がある。清馬は大逆事件により、20年以上を獄中で過ごさなければならなかった人物だ。秋水と同じ高知県の生まれであり、父親は秋水と同郷の中村出身だ。

 清馬の父は腕のいい紺屋の職人であったが、事業に手を出して失敗。清馬が生まれた時、一家は海岸の松林の中に掘っ立て小屋を建てて暮らしていた。清馬は貧困ゆえに様々な苦労をして育つ。1906年21歳で上京、翌07年、足尾銅山で工夫たちが叛乱を起こしたことに触発され、秋水に手紙を書く。一時は秋水や堺利彦の家に住み込み、書生などをしていた。

 1909年2月頃、管野須賀子と二人で外出したところ、秋水から「管野さんを恋しているのではないか」と疑われる。自伝には次のように書いている。

 

 「『坂本は秋水の家で書生しているから威張るとか、運動の仕方が悪いと言われたら申しわけないと思い、一生懸命やって来ました。先生だけは、私の心を知っていてくれると思っていました。実に心外に堪えません』と言い終わると涙がポロッとこぼれた。今でもこの時のことを声に出すと自然に涙がこぼれてくる」

 

 体中が怒りで一杯になった清馬は「貴様が革命をやるかおれがやるか、競争するぞ。こんなところにはおられない」といって、秋水の家を飛び出してしまう。

 その後、休養のために宮崎や熊本に滞在したり、石川三四郎と福田英子の世界婦人社に出入りをしたり、ブラックハンディスト(暗殺党)を組織するために各地を訪ね歩いたりするが、ふと故郷の両親のことが懐かしく思い出され、「もう運動はきっぱりやめよう」と決心する。その矢先1910年7月、勤務先に刑事がやってきて逮捕される。罪名は浮浪罪だが、住居も仕事もあり、この逮捕自体がでたらめであった。大逆罪によって起訴され、翌11年1月18日死刑判決、19日特赦により無期懲役減刑。21日、秋田刑務所に送られ1931年までを過ごす。その間に両親は他界。秋田は遠いため、一度の面会もかなわなかった。その後高知刑務所に移監され、1934年11月に仮出獄する。

 出獄後は「また思想運動に入らないように」という配慮から、特高警察の世話で新興の宗教であった大本(大本教)で働くが、その大本自体が不敬罪により弾圧を受けるようになるのだから皮肉な話である。

 戦後は中村町会議員になったり、日中友好協会中村支部を立ち上げて日中友好に尽力する。1961年、大逆事件死刑判決50年目となるこの年に、刑死した森近運平の妹・栄子(ひでこ)と再審請求を起こす。当時の判決内容の問題点を指摘し、天皇に危害を加える共同謀議には無関係であったことを裏付ける資料を多数提出したが、65年12月、請求は棄却される。しかし、80歳の清馬はこう語ったという。

 「こうなったら、あと50年は生き抜いて、あくまで真実のために闘う」

 

 晩年、清馬は管野須賀子のことをこう言っていた。


 「明治の女性は、美人といってもまるで人形か能面のように表情がなかった。喜怒哀楽をあらわすのは、はしたない-とされていたそんな当時に、スガ子さんはみるからに活き活きとしていた。表情がゆたかで、感情のままに体を動かした。スガ子さんが席にいると、そこだけ光ってみえた」

 「男達と議論をするときは全く対等にまっすぐ眼をみつめてしっかりと話した。ぼくはあんな女性に生涯であったことはない」


 とはいえ、須賀子とは「握手一つ、接吻一つ」したこともなかったという。それなのに秋水に仲を疑われたから、カッとなったのだ。

 今、清馬は師の秋水と同じ墓地に眠っている。

 

 

幸徳秋水の墓

坂本清馬の墓

 

[参考文献]

大逆事件の真実をあきらかにする会編「大逆事件を生きる 坂本清馬自伝」(新人物往来社

鎌田慧「残夢 大逆事件を生き抜いた坂本清馬の生涯」(金曜日)