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大逆事件と関西1.[神戸の大逆事件]

 5月下旬、神戸でサミットに参加をしてきた。サミットといっても、G7ではない。2018年以来、5年ぶりに開かれる「第5回大逆事件サミット 神戸大会」のことである。

 大逆事件サミットは、大逆事件の犠牲者たちの名誉を回復するための活動を行っている各団体の交流の場として始まった。事件から100年となる2011年、幸徳秋水の故郷であり、戦後に再審請求を行った坂本清馬が住んでいた高知県四万十市で第1回目が行われたのを皮切りに、2014年は福岡県みやこ町、2016年は大阪市、2018年は和歌山県新宮町と2年おきに開かれてきた。ところが、2020年はコロナ禍のために延期。3年の歳月を経て、ようやく今年開かれることになったのだ。

 と、このように書くとまるで関係者のようだが、私は今回が初めての参加。

 

 

新幹線といえばビール

 

 大逆事件では天皇の暗殺を企てたとして26人が起訴、うち24人に死刑判決が下され12人が刑死している。無期に減刑されるも、獄中で亡くなった人もいる。これらの人々のほとんどは実際には謀議にすら加わっておらず、社会主義者を根絶やしにするための政府によるフレームアップ(でっちあげ)であったことが現在はわかっている。類を見ない大規模な弾圧は東京、大阪のみならず、九州の熊本にまで及んだ。このため各地域に、犠牲者の汚名をそそぎ、彼らが本当はどんな人であったのか伝えようと活動する団体が存在するのである。

 神戸は「神戸平民倶楽部」を立ち上げた岡林寅松、小松丑治が活動をしていた場所である。二人とも高知市出身で、1876年生まれの小学校の同窓生。岡林は医師になるために京都に出て、1899年に医術開業前期試験に合格。1902年、小松の紹介で神戸海民病院に職を得た。院長のもとで医学を学ぶ傍ら、「萬朝報」に掲載された幸徳秋水堺利彦の非戦論に共感し、社会主義に関心を持つようになる。

 小松は17歳で大阪に出て、区役所や郵便局などで働いていたが、官印盗用と官文書偽造行使詐欺取財の容疑で禁固1年、監視6ヶ月の刑を受けてしまう。失意の内に高知に戻り、しばらく鬱々としていたが、1898年に神戸に出て神戸海民病院の事務員となった。小松もまた、幸徳秋水堺利彦反戦の立場を貫くために1903年に創刊した、週刊「平民新聞」を読んで感銘を受けていた。

 1904年9月、二人は「神戸平民倶楽部」を結成する。これは神戸在住の「平民新聞」の読者を対象とした集まりであり、社会主義に関する研究や討議を定期的に行っていた。1907年12月には「第一回社会主義講演会」を開き、これには大阪から森近運平、武田九平、荒畑寒村、和歌山からは大石誠之助が出席し、講演を行っている。

 大逆事件では二人とも、曹洞宗の僧侶である内山愚童の「皇太子暗殺計画」に賛同し、爆裂弾の製造方法を内山に教えたかどうかが問われた。確かに1909年5月、警察の家宅捜索を受けた内山の自宅からは、ダイナマイトが押収されている。しかし、これは工事に用いるダイナマイトを内山が預かっただけのことだった。内山が企てたとされる「皇太子暗殺計画」も、信州の社会主義者である宮下太吉が爆裂弾を製造し、明治天皇を暗殺しようとした謀議に内山を結びつけることができなかったため、検察がでっち上げたものだった。

 にもかかわらず、1911年1月18日、岡林と小松には死刑判決が下される。翌日、無期刑に減刑されたものの、1931年に仮出獄が許されるまで20年も獄中で過ごさなければならなかった。そのような状況で、小松の妻のはるが夫の無実を信じ、1910年1月に小松が始めていた養鶏事業を守り続けたことは救いだろう。仮出獄後には小松も養鶏の仕事をするが、1945年10月、栄養失調で亡くなった。

 一方の岡林は堺利彦の紹介で大阪の病院に就職した。病院経営者の妻によると、非常に真面目で口数の少ない人だったという。病院の一室を借りてそこで生活をしていたが、冬でも板の間で寝る癖があり、水浴を好んだ。短歌や俳句を作り、エスペラント語を勉強していた。どこに行くにも決して電車に乗らずゴム長靴で歩いていくので、監視の刑事が困っていたという。

 岡林は1947年2月特赦により復権、翌48年に亡くなった。

 

[参考文献]

管野須賀子研究会編「管野須賀子と大逆事件 自由・平等・平和を求めた人びと」(せせらぎ出版)