東京の土地勘がないので、どこをどう歩いたのかよくわからないけれど、かの有名な古書街・神保町を経由。一度行ってみたかったのでうれしい。
さて、1910年の大逆事件で死刑判決を受け、翌年1月25日に処刑された管野須賀子の墓は渋谷区代々木の正春寺というお寺にある。
須賀子は1881年、大阪生まれ。一般的に「管野スガ」と表記されることが多いが、本人は「須賀子」という筆名を用い、親しい人たちもそう呼んでいたようなので、ここでも須賀子と表記したい。
金子文子や伊藤野枝同様、彼女も権力につぶされた女性であるが、須賀子に関してはことさらに「妖婦」「悪女」といったイメージがつきまとっているように思う。これは須賀子の二人目の夫・荒畑寒村の自伝の影響によるところが、かなり大きいようである。
寒村は須賀子のことを常に色気を漂わせ、多くの男性と浮名を流した女性で、その色香に6歳年下で純情な少年だった自分も惑わされてしまったかのように書いた。だがこれはどうやら、別れた妻・須賀子への寒村の個人的なうらみつらみが入っているように思われる。
巷間よく知られる「少女の頃に継母の奸計により、炭鉱夫から強姦された」(その苦しみのためにキリスト教に入信した)という話も、真偽のほどははっきりしない。
そのようなセクシャルなイメージが流布する一方で、新聞記者として活躍した姿が広く知られているとは言い難い。これは須賀子個人の素行の問題ではなく、今も昔も変わらぬジェンダーバイアスの問題であろう。
その須賀子の墓は、思っていたよりずっと小さな墓だった。最初、ざっと墓地を一周してみたが見つけられず、ネットで検索して墓の画像を見ながら、後ろに写っている風景と照らし合わせて探して、やっと見つけることができた。
墓石の表側に刻んである文字は、ほとんど読み取れない。後で調べたところによると、須賀子が詠んだ「くろかねの窓にさしいる日の影の移るを守りけふも暮らしぬ」という歌が刻まれているそうだ。
裏面に刻んである文字は表面よりは読みやすく、「革命の先駆者 管野スガここにねむる 一九七一年七月十一日 大逆事件の真実を明らかにする会 これを建てる」とある。これが建てられたのは、処刑から60年後だったのである。
それでもしかし、建てられたからこそ訪ねることができる。管野須賀子という人がこの世に存在したことを示す、確かな痕跡である。「大逆事件の真実を明らかにする会」の活動に感謝。
それにしても、長く日本の中央であり続けている東京の中の、「抵抗」や「改革」の足跡をたどることは新鮮だった。そのような東京散歩を満喫し、紹興酒で乾杯をして、翌日帰路に着いたのだった。