旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

東京大逆ツアー 巣鴨編2.[福田英子の墓①]

 初日は14時頃に羽田空港に到着後、モノレールで移動。私が羽田空港を好きな理由の一つは、モノレールに乗れるからだ。浜松町に着いたらさらに巣鴨に移動し、ホテルにチェックインして染井霊園に向かう。福田英子の墓は巣鴨門から入って少し歩くとすぐに見つかった。

 福田(旧姓・景山)英子は1865年、岡山の下級武士の家に生まれた。自伝「妾の半生涯」によると子どもの頃から非常に賢く、11、12歳の時に「十八史略」や「日本外史」を県令学務委員らの前で講義する役に選ばれた上、わずか15歳にして学校の助教諭を任せられる。身なりにかまうより書物を読むことを好み、16歳までは髪を結わずに短く切って、服装も男性のような格好であったため、近所の子どもたちから「まがい」とからかわれる。男とも女ともつかないまがいもの、という意味だ。

 16の年の暮れに結婚の話が舞い込むが、愛情を感じない男性と結婚するよりも独立自営の道を得たいと考え、これを断る。一方で、友人の兄で幼なじみの小林樟雄(自伝には「葉石久米雄」と変名で表記)と再会。自由党の活動家でフランス語に堪能な小林から、ジャンヌ・ダルクのことなど教えられる内に意気投合し、二人は婚約する。

 男女同権を主張する岸田俊子の演説を聞いて、深い感銘を受けたのもこの頃だ。女性同士で団結し、自由平等の世の中を作るために、英子は有志を募って女子懇親会を組織する。さらに女性のための私塾・蒸紅(じょうこう)学舎を立ち上げる。しかし、こうした運動に対する政府の弾圧は強まりつつあった。

 1880年4月、政治集会と政治結社を取り締まることを目的とした、集会条例が公布される。これにより、「国安に妨害を与える」とみなされた政治集会と政治結社は認められないこととなり、屋外集会の禁止、警官が集会に臨席し、解散を命じ得ることなどが定められた。英子の自伝にも、自由党員による「納涼会」のエピソードが登場する。

 1884年8月、自由党員が町の東側を流れる朝日川にて納涼会を行い、女子懇親会もこれに参加する。船を朝日川に浮かべ、最初は楽器を演奏したり歌を歌ったりしていたようだが、やがて自由党員の一人が演説を始める。町中であれば警官に中止解散を命じられるが、川の上ではその心配もない。監視や妨害のない心やすさから大いに盛り上がっているところに、突如として水中から警官が現れ、会の中止を命じる。


 「水上是れ無政府の心易きは何人の妨害もなくて、興に乗ずる演説の続々として試みられ、悲壮激越の感、今や朝日川を領せる此時、突然として水中に人あり、海坊主の如く現はれて、会に中止解放を命じぬ」(「妾の半生涯」)

 

 民権運動の活動家たちも負けていない。「河童(警官)を殺せ!」「殴り殺せ!」と色めき立つが、年長者にいさめられ、しぶしぶ解散する。


 「はからざりきこの船遊びを胡乱に思ひ、恐るべき警官が、水に潜みて其の挙動を伺ひ居たらんとは。船中の人々は今を興たけなはの時なりければ、河童を殺せ、なぐり殺せと犇めき合ひ、荒立ちしが、長者の言に従ひて、皆々穏やかに解散し、大事に至らざりしこそ幸ひなれ」(「妾の半生涯」)

 

 だが、騒動はこれだけでは終わらなかった。この納涼会に参加していたことを理由に、蒸紅学舎が県令から活動の停止を命じられる。このできごとが英子に火をつけた。「政府が人権を蹂躙し、抑圧を逞ふして憚からざるは是れにても明(あきら)けし」「如何でかにこの幣制悪法を除かずして止むべきや」と激怒、東京に行くことを決意する。19歳であった。