旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

向山文庫を再訪する4.[長徳寺]

 向山文庫、及び難波家屋敷の後に向かったのは長徳寺である。長徳寺は1711年に給領主清水家の祈願所となった曹洞宗の寺だ。難波家から歩いて20分ほどのところにある。

 

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 ご本尊の十一面観音の縁日が3月18日にあたることから、毎年この日には「長徳寺市」が開かれ、大勢の人でにぎわうようだ。今年は新型コロナウイルスの感染拡大防止のために中止になってしまったが、昔から地元の人たちに親しまれてきた。難波大助も裁判の中で、「一年に1、2回の市の時」に父から小遣いをもらったことを話している。(その小遣いが少なかった、という恨み節であるが) 行ってみて初めて知ったが、大助の曽祖父・難波覃庵(たんあん)にゆかりのある寺であった。

 

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大勢の人でにぎわう市が開かれるだけあって、境内は広くゆったりとしている。

 

こんなところにお釈迦様

柔和なよいお顔

  と、何やら物々しいシルエットが・・・

 

 

 忠魂碑だ。

 田中義一による筆毫で、紀元2586年即ち1926(昭和元)年の3月に村民により建立されたものである。田中は長門国阿武郡萩(現・山口県萩市)の出身だ。

 

 

 大助は沼義雄判事から思想上の遍歴を問われ、田中義一の名を出している。曰く大正8(1919)年、大助が中学生の時、当時陸軍大臣だった田中が山口に凱旋帰国した際、学生たちが道路に整列させられ、その前を田中が閲兵して歩くことがあった。「中学生及び小学生全部が整列して一武官に過ぎぬ田中義一のために閲兵を受けるという、実に軍人というものは非常識極まるものであるということをしきりに憤慨したのを覚えております」と語っている。

 それまでの大助はむしろ、大阪朝日新聞の記事が朝憲紊乱であるとして右翼団体などに攻撃された「白虹事件」を受け、父・作之進とともに近所の家々に朝日新聞の不買を呼びかけるなど、忠君愛国の思想を抱く少年であった。しかし、田中の閲兵に憤慨した翌年の大正9(1920)年から政談演説を聞きに行くなど、政治に強い関心を持つようになり、徐々に左傾化していく。これはこの年に初めて上京し、世界が広がったことも影響しているだろう。

 さて、この日は光市のホテルに宿泊。海の近くのホテルであり、古きよき観光ホテルのにおいがする。 砂浜でぼんやりして、一日の疲れをいやした。

 

Kaigan