旅と映画

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旧中野刑務所(旧豊多摩監獄)跡

 6月に所用で東京に行った際、旧中野刑務所跡を訪ねてきた。JR中野駅から歩いて15分ほど。現在は正門のみが中野区の文化財として保存されており、他の建物は既に解体されて残っていない。この正門も、現在の場所から100メートルほど西に移転する計画があるそうなので、移転の前に見に行ってきたのだ。
 旧中野刑務所は戦前に数多くの「思想犯」を収容したことで知られている。有名なところでは大杉栄荒畑寒村小林多喜二埴谷雄高、川上肇、徳田球一野坂参三三木清大川周明などだ。特に1941年に治安維持法が改正されるとここに予防拘禁所が設置され、共産党員、神道以外の宗教の信者などが収容された。
 その沿革は1910年、市谷監獄が現在の場所に移転してきたことに遡る。当時の住所でいうと豊多摩郡野方村。設計を担当したのは建築家・後藤慶二。煉瓦造りの壮麗な2階建てで、監房は十字型をしていた。建設工事には囚人が駆り出されたという。獄舎は1915年に完成し、名称も「豊多摩監獄」に改められた。
 敷地は広大で、現在公園や下水処理施設となっている辺りも豊多摩監獄だった。
 1945年に日本が戦争に負けると、GHQに接収され米陸軍刑務所(スタッケード)となる。1956年に日本政府に返還、翌57年に中野刑務所に改称される。その後、「緑の広場と避難場所に」との住民運動が起こり、1983年に廃庁となった。

 

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 敷地の入り口は閉鎖されており、たまに行われる一般公開時しか中には入れないようだ。

 

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 気になるのは当時の獄中での生活ぶりである。社会運動史的に記録する会編「獄中の昭和史 豊多摩刑務所」には、思想弾圧を受けて投獄された人々の貴重な証言や日記が収録されている。それによると、独房は3畳ほどの広さで板敷きに畳が1枚が置かれていた。高いところに鉄柵の入った窓が一つ。壁は赤煉瓦で、トイレは壁を四角くくり抜いた穴に小判型の便器を収容するようになっていた。そのため夏は排泄物が熱気で蒸され、ひどい悪臭を放ったという。ノミやシラミに悩まされたとの述懐も数多く見られる。
 食事は朝と夕は顔がうつるほど薄い味噌汁。昼はヒジキと大豆を煮たものやコマ切れの肉片がわずかに入った肉じゃがなどのおかずが一品だけ。主食は麦飯。食事の量は、作業の軽重にもよるが全体的に少なく、特に戦争が始まると量、質ともに悪化した。空腹に耐えかね、封筒貼り作業用ののりをなめる者もいた。
 そのような中でも収容された者同士で壁をトントン叩いて、コミュニケーションを取っていたという。アイウエオを基盤に、例えばスはトン(ア)・トン(カ)・トン(サ)とまず3回叩いたのち、少し間を置いてトン(サ)・トン(シ)・トン(ス)と3回という具合だ。夜になるとどの部屋でも壁をトントン叩いて、口頭での会話のようにスムーズではないが、それでもかなり自由闊達に通話していたらしい。自分の名前や家族のこと、どのように投獄されたか、さらには革命運動のことまで話し合われた。
 外部との通信や読む本を制限され、転向まで強要されるような獄中生活で、どれほど心慰められ、励まされたことだろうか。
 今残っている煉瓦造りの正門からはうかがい知ることもできないが、壁をトントン叩くというささやかなコミュニケーションに希望をつなぐ人たちがいたのだ。

 

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[参考資料]
社会運動史的に記録する会編「獄中の昭和史 豊多摩刑務所」(青木書店)