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大逆事件と関西3.[森近運平の書簡]

 5年ぶりに神戸で開催された「第5回大逆事件サミット 神戸大会」は、参加者140名の盛況だった。各地で大逆事件の真相を明らかにしたり、犠牲者の名誉を回復するための活動を行っている11団体が一堂に会したのも得難い機会だろう。

 その中の一団体、岡山の「森近運平を語る会」が会場で販売していたのが、「森近運平獄中書簡集plus」だった。刑死した一人である、森近運平が獄中から家族や友人に宛てて送った書簡の写しのほか、事件当時の新聞報道や親しい人たちが妻の繁子に送った手紙を併せて収録した、非常に貴重な資料集である。

 

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 森近運平は1880年、岡山に生まれた(※)。生家は裕福な豪農で、森近は農学校を卒業後、岡山県庁に就職する。その頃に「平民新聞」を知り社会主義に目覚め、自らも「平民新聞読書会」「岡山いろは倶楽部」を結成した。町村長会合の場で日露戦争に反対する演説を行って、県の職員を免官される。

 1905年以降は大阪で「大阪平民社」を立ち上げたり、東京でミルクホール「平民舎」を経営したりしながら、日本社会党の結党に参画したり、普通選挙権要求運動、東京市電値上げ反対運動など、精力的に活動している。だが、弾圧を受け大阪平民社は解散に追い込まれる。1908年9月、活動再建の相談をするために東京・巣鴨平民社を訪れ滞在しているが、幸徳秋水と管野須賀子の恋愛のことでたもとをわかち、1909年3月、岡山に帰っている。

 その後は郷里で「森近園芸場」を営み、ガラス温室を使った高等園芸を研究するなど農業改革に努めていたが、1910年6月、天皇暗殺の謀議に加わったとして拘引される。森近自身は「これは何かの間違いで、いずれ無罪で釈放されるだろう」と考えていたようである。事実、謀議になど加わっていないのだから、彼がそう思うのは当然だろう。

 「森近運平獄中書簡集plus」を見ると、妻や弟に宛てた手紙には農業に関する記述が多い。

 「温室の葡萄も長くなつたらうとらふと思ふが僕の一身が何とか決定する迄祖儘にして頂きたい」

 「無花果の木は裏の畑に一本生きて居たのが加州黒(カリホルニヤ ブラツク)、本家の菜園にあるのが褐色土耳其(ブラウンターキー)。天上白(セレスチアルホワイト)である。大切に御保存を乞ふ」

 生きて郷里に帰り、再び農業に従事するつもりだったのだろう。それだけに、死刑判決を受けた時の心境はいかばかりであったろうか。判決後、1911年1月20日に弟に宛てて書いた手紙はこのような文面で始まる。

 「死刑!全く意外な判決であつた」

 書簡集に収録された写しを見ると、「死刑!」の文字だけが他の文字より大きく、太く記されている。森近の驚愕と絶望が表れており、胸がつぶれるような思いがする。なんと惨酷なことだろう。

 

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 なお、森近の郷里の高屋村では、判決後に村民による助命運動が起きている。大逆事件連座者で、このような運動が起きているのは森近だけだ。彼が周囲の人々から敬愛され、信頼されていた何よりの証しだろう。だが、判決からわずか1週間あまりで刑は執行され、村民たちの嘆願はかなわなかった。

 現在、森近の生家跡には「父上は怒り玉ひぬ我は泣きぬ さめて恋しき故郷の夢」という獄中歌を刻んだ歌碑が建っている。刑死から50年になる1961年1月24日に、農学校の同窓生らが中心となって建立したものだ。

 2年後、第6回目の大逆事件サミットは岡山で開催される。その時にはこの歌碑を訪ねてみたい。

 

※森近の生年については、生まれたのは1880年10月23日だが、届けを出したのは1881年1月20日

 

[参考文献]

森近運平を語る会 森山誠一編「森近運平獄中書簡集plus」

田中伸尚「大逆事件 死と生の群像」(岩波現代文庫