旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

「ラストエンペラー」

 KBCシネマで、ベルナルド・ベルトリッチ監督の「ラストエンペラー」を鑑賞。言わずと知れたアカデミー賞作品賞ほか9部門を獲得した、1987年公開の名作。今年の1月にも「12ヶ月のシネマリレー」の一環としてリバイバル上映されたが、音楽を担当した坂本龍一氏が3月28日に亡くなったため、急きょ追悼上映が決まったのだ。1月に観たばかりだが、氏の冥福を祈ってもう一度劇場に足を運んだ。
 清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の数奇な人生を描いた作品だ。とにかく映像と音楽が素晴らしい。映画館の大画面で観るべき作品だろう。
 ところで、1月に劇場で観たのをきっかけに、溥儀の帝師であったレジナルド・ジョンストンの「紫禁城の黄昏」ほか、溥儀や満州国に関する本を何冊か読んでみた。その中に、にわかには信じがたい衝撃的な内容が記されていたので、備忘録としてここに書き留めておく。
 訪日を機に、溥儀が日本の皇室への崇敬の念を深め、国家神道を信奉するようになることは以前から知っていた。だが、入江曜子「溥儀 ――清朝最後の皇帝」(岩波新書)によると、溥儀は1937年2月17日、関東軍司令官・植田謙吉との間である密約を交わしていたという。それは満州国の帝位継承に関するもので、以下の内容である。
 「康徳帝(注:溥儀)に男子無き場合における皇位の継承に関しては関東軍司令官の同意を得て左の如く之を定む。
一、康徳皇帝と帝后との間に帝男子無きこと確実となりたる時は皇位継承は一に天皇の叡慮に依りて之を決定するものとす。
一、康皇皇帝に帝男子無き場合帝位の継承を決定せる時は天皇の叡慮により帝位を継承せしむる旨、皇帝より之を宣すものとなす。
一、歴代皇帝も亦此規定に拠るものとす」
 つまり、溥儀と皇后婉容との間に男子が生まれないことが確実になった時は、日本の天皇が後継者を決める。日本の天皇の判断に任せることを、皇帝である溥儀が宣言する。以後の皇帝についても、この規定によるというものだ。
 しかもこの密約は、関東軍がむりやりに結ばせたものなどではなかった。この密約に先立つ1935年4月、溥儀は一回目の訪日をしているが、この時に昭和天皇の母である貞明皇太后から温かなもてなしを受けている。皇太后は「秩父秩父宮)さん、高松(高松宮)さん、三笠(三笠宮)さん、満州さん」と、溥儀を5番目の息子のようにあつかった。溥儀も御所の庭を散歩する際、皇太后の手を取り、足もとを気遣う優しさを見せている。わずか3歳で親元から引き離され、何もわからないまま即位させられた溥儀の前半生を思えば、皇太后「母」を感じ、深く惹かれるのもやむを得ないことかも知れない。
 もっとも、この密約にはそうした慕情だけでなく、日本の皇室の威光を後ろ盾とすることで、自身の地位を安泰させたいとの計算も働いていたようである。
 この頃、皇后の婉容は既に阿片にむしばまれており、婉容との間に子どもが生まれることは考えにくかった。また、溥儀は幼少期に彼を「なだめる」ための手段として「性器を弄ぶ」ことを周囲から教えられており、まだ少年である頃から複数の女官と性的関係を持たされていたという。現代の感覚で見れば、これは子どもに対する性虐待である。事実、溥儀は性に対してマイナスのイメージを持っており、生涯で5人の女性と結婚しているが、妻と性的な関係を持つことが困難だった。
 溥儀は日本の皇室から養子を迎え、次の満州国皇帝にすることを望んでいた節がある。だが、1940年3月に溥儀が二度目の訪日をすると、日本政府の溥儀への関心は薄れていた。この年は日米開戦を翌年に控えた年である。溥儀が信頼していた秩父宮も病気療養中で会うことができなかった。その後も溥儀は弟・溥傑の妻、浩を通じて女性皇族と結婚することを願うがかなえられることはなく、徐々に日本に失望するようになっていく。打って変わって「幼い少女を自分の手で教育する」ことを夢み、15歳の少女を側妃として迎えたりする。
 ちなみにこの少女、李玉琴は満州国の崩壊後、「売国奴の女房」として蔑まれ、就職もできずに肩身の狭い思いをしなければならなかった。文化大革命の時にも激しく糾弾され、たまりかねて「皇族被害団」を結成、溥儀を相手に批判闘争を繰り広げることになるが、それはまた別の話。