横網町公園にて朝鮮人犠牲者追悼碑に手を合わせた後は、亀戸に移動。亀戸事件犠牲者の碑に手を合わせるためだ。
労働運動を行っていた年若い活動家たちが、関東大震災の混乱に乗じて官憲に殺害された亀戸事件が起きたのは、9月4日(3日という説もある)のことである。殺害されたのは川合義虎、加藤高寿、山岸実司、近藤広造、北島吉蔵、鈴木直一、吉村光治、佐藤欣治、平沢計七、中筋宇八の計10人。川合は日本共産青年同盟の初代委員長で、この時22歳。他も20歳から27歳までの青年たちであり、最も年かさの平沢でも34歳だ。
慰霊碑は赤門浄心寺にあり、JR総武線亀戸駅から歩いて10分ほど。
こちらも毎年追悼集会が行われているが、今年はやはりコロナウイルス感染拡大の影響で一般の参加はなし、規模を縮小する形で行われたようである。私も一人で手を合わせてきた。
碑にはこう刻まれている。
「一九二三年大正一二年九月一日関東一帯を襲った大震災の混乱に乗して天皇制警察国家権力は特高警察の手によって被災者救護に献身していた南葛飾の革命的労働者九名を逮捕、亀戸署に監禁し戒厳司令部直轄軍隊に命じて虐殺した。惨殺の日時場所ならびに遺骸の所在は今なお不明である。労働者の勝利を確信しつつ権力の蛮行に斃れた表記革命戦士が心血をそそいで解放の旗をひるがえしたこの地に建碑して犠牲者の南葛魂を永遠に記念する。
一九七〇年九月四日 亀戸虐殺事件建碑実行委員会」
犠牲者の人数が9人になっているのは、この碑文が刻まれた1970年の時点では中筋宇八が犠牲者に含まれていなかったためだ。その後、研究が進み彼も犠牲となった一人であることがわかったが、これは狭義の亀戸事件であり、亀戸署に連行されてそのまま帰ってこなかった人は他にもおり、実際の犠牲者はもっと多いと見られている。日本人の労働運動家以外にも多数の朝鮮人、数名の中国人が殺害されている。これもまた、決して忘れてはならない歴史だ。
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