旅と映画

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今年も9月1日を東京で過ごす4.[亀戸事件犠牲者之碑]

 横網町公園での朝鮮人犠牲者追悼式典に参加した後は、亀戸に向かった。目的は赤門浄心寺の「亀戸事件犠牲者之碑」。
 亀戸事件とは関東大震災の混乱のさなか、南葛飾郡亀戸町(当時)付近を拠点に活動していた労働組合員らが検束され、9月4日から5日にかけて亀戸署内で殺害された事件のことである。(3日から4日との説もある)

 

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 殺されたのは、共産主義青年同盟の委員長だった河合義虎ほか、加藤高寿、北島吉蔵、近藤広造、佐藤欣二、鈴木直一、平澤計七、山岸実司、吉村光治、中筋宇八ら10人。多くはまだ20代前半の若者だった。
 この当時、南葛飾地域の労働運動は先鋭的なことで知られており、事件は運動の弾圧が目的だった。実行したのは習志野騎兵第一三連隊で、遺体は大島四ツ木橋、荒川放水路付近で焼却された。そのため、遺族は長らく墓を建てることすらできなかった。河合に至っては戸籍の抹消が行えず、現在も戸籍上は「生きている」ことになっているという。悲しくも、どことなく背筋が寒くなるような話だ。

 

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都立横網町公園での朝鮮人犠牲者追悼式典で展示されていた、亀戸事件を伝える新聞記事

 関東大震災は単に巨大な地震で建物が倒壊し、火災によって多くの人が亡くなったにとどまらなかった。その後の混乱状況の中で流言が発生すると、朝鮮人の虐殺が始まった。これは流言の中には事実もあったということでは決してない。日本の植民地支配下朝鮮人に対する収奪が行われ、彼らへの差別意識があったからこそ、流言は真実味を帯びた。
 震災の翌日に戒厳令が発令されると軍隊が出動し、警視庁は各署に「不逞者取り締まり」を命じた。社会主義者の検束が始まり、各地で住民による自警団が結成される。虐殺は拡大し、中国人労働者、社会主義者無政府主義者、言葉の不自由な障害者などがその犠牲となった。これは天災ではなく、まぎれもなく人災である。
 また、状況が落ち着いてからは、震災は浮かれた国民に下された天罰であるとする「天譴(てんけん)論」が言われるようになる。1923年11月に摂政裕仁(のちの昭和天皇)が発布した「国民精神作興ニ関スル詔書」は、関東大震災後の社会的混乱を鎮めるために出されたものであるが、天譴論の影響が強く感じられる。
 詔書はまず、「浮華放縦(ふかほうしょう)の習い」や「軽佻詭激(けいちょうきげき)の風」を強く戒め、先帝(明治天皇)の聖訓に則って綱紀粛正や忠孝義勇に力を尽くし、国家の隆興と国民の安栄とを図るべしとする。
 個人の尊重や民主主義の風潮は国体に反するものとして否定され、国民統合が強化される契機の一つとなったのである。

 

[参考文献]
関東大震災90周年記念行事実行委員会/編「関東大震災記憶の継承:歴史・地域・運動から現在を問う」(日本経済評論社
成田龍一大正デモクラシー シリーズ日本近現代史④」(岩波新書