旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

大逆ツアー 鎌倉編4.[村木源次郎の墓②]

 私が敬愛する山川菊栄の「おんな二代の記」には、時々村木源次郎が登場する。例えば1916年、結核の療養のために菊栄が東京を離れた時のことだ。

 

 「鎌倉へ移ったのは大みそかの日で、駅につくと、あらい紺がすりの筒袖の着物の、短い裾から長いスネを出した大人と子供のあいのこのような人が、ニコニコして出迎えてくれました。色白で目の大きな、柔和な顔つきのこの青年は、村木源次郎氏。赤旗事件でつかまった後、未成年なので一年で出てきたものの、久しく結核を病み、ようやくよくなったところでした。革命歌などをうたいながら掃除もきれいにすれば、食物ごしらえも上手、男のことで使い歩きも早く、親切な人で、子供や年寄り、病人の世話はお手のもので、誰にも親しまれ、どこでも重宝がられていた人で(後略)」


 非常に好意的な書き方で、「革命歌などをうたいながら掃除もきれいにすれば」というところなど、陽気な村木の姿が目に見えるようである。一方で、こうも書いている。


 「村木氏はゆくさきざきで、世話になったといっても、食べものは甲の家、寝るのは乙の家ということも珍らしくなかったようで、そのころ、大逆事件にうちもらされた同志の人々の多くは失業者で、いったい何をして生きていたか、見当のつかないような生活だったのです」

 

 「淋しさや秋の水追ふ蝶一つ」とは、村木が詠んだ句である。秋の水とは、言うまでもなく幸徳秋水のことだ。村木は秋水を深く尊敬していたという。大逆事件の時、村木はまだハタチである。次々と社会主義者たちがくびり殺されていく様は、村木の目にはどう映ったのだろう。

 誰にでも優しく親切で穏やかな反面、村木には心に秘めた虚無があった。同志の近藤憲二が「秋の日向で」という文章の中で、村木が首相の原敬の暗殺を企てていたことを書いている。病身のため、近藤たちのように労働運動に駆け回ることはできないが、「この俺にだってできることはある」と考えた村木は、仲間に累が及ばないよう大杉栄らを東京から離れさせた上でことに及んだ。新聞で原が旅行先から何時何分に東京駅に到着予定であると知り、これを好機と見て東京駅に行く。果たして、駅で首相の一行を見つけ、前から何人目に歩いているのが原敬だと確認するところまではできた。

 ところが、その日彼が持っていたのは短刀だった。短刀では仕損じるのではないかと不安になった村木は、この日は暗殺を見合わせることとする。そして以後はピストルを懐に、原の屋敷や役所の周りを歩き回るが今度は一向にぶつからない。その内に段々疲れてきて、「ええ、クソッ!」という気になって温泉に行って寝転んできた・・・という顛末だ。

 これだけ読むと呑気なエピソードのようだが、わざわざ仲間を東京から離れさせたことから見ても、村木は本気だったに違いない。

 「ご隠居」とあだ名され、主に雑務を担っていた村木だが、その精神は決して枯れていなかった。大杉と伊藤野枝、甥の橘宗一が虐殺された後も、和田久太郎、古田大次郎とともに関東戒厳司令官・福田雅太郎を暗殺しようとする。幼い宗一までもが残虐に殺されたことへの報復だ。

 関東大震災からちょうど一年後の1924年9月1日、本郷菊坂の長泉寺で講演を行う福田を襲撃するが失敗、和田が逮捕される。9月10日未明、隠れ家に警察が踏み込み、村木と古田も捕らえられた。古田の回想によると、この時村木は「16日まで待つのではなかった」と言ったという。大杉らの命日に合わせ、9月16日に実行するつもりであったのだ。

 逮捕後、村木は市谷刑務所に収監された。獄中で健康状態がひどく悪化し、危篤となって1925年1月23日に保釈される。翌24日、奇しくも幸徳秋水が処刑されたのと同じ日に亡くなった。

 保釈の直前に和田が村木と面会している。村木は既に目も見えなくなっていたようだが、和田がポタポタ涙をこぼすと、「泣くな・・・泣いたって、しよがあるか・・・」と言った。言い残すことはないかと尋ねたが、「何も・・・ない・・・」との返事だった。遺骨は本人が生前に作っていた横浜の墓に収められたが、1969年に鎌倉の本覚寺にある親戚の長芝家の墓に改葬された。今回私が訪ねたのはその墓である。

 

[参考文献]

山川菊栄「おんな二代の記」(岩波文庫

廣畑研二編・著「大正アナキスト覚え帖 関東大震災90年」(アナキズム文献センター)

秋山清「やさしきテロリスト・村木源次郎」(中央公論「歴史と人物」昭和47年12月号)

古田大次郎著 黒色戦線社補「死刑囚の思ひ出 増補決定版」(黒色戦線社)