旅と映画

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明治大正テロリズムの残滓を訪ねる4.[福田雅太郎暗殺未遂現場跡]

 和田久太郎と村木源次郎が、陸軍大将・福田雅太郎を暗殺しようとしたのは、1924年9月1日のことだった。関東大震災からちょうど一年後のこの日、福田は本郷区菊坂町の長泉寺で講演をする予定となっていた。講演会は在郷軍人会の主催で、福田は震災当時、戒厳軍司令官を務めていたのだ。関東大震災の混乱のさなか、朝鮮人や中国人、日本人の社会主義者、そして大杉栄伊藤野枝、橘宗一が虐殺された責任は最高責任者であった福田にある。和田はのちの裁判で大杉たちのことだけでなく、朝鮮人虐殺や亀戸事件についても激しく非難している。

 計画では福田を乗せた車が通りかかったら、和田が爆弾を投げる手はずとなっていた。和田が仕損じた場合を想定し、村木はふところに拳銃を忍ばせて会場に潜入した。ギロチン社の古田大次郎が見張りのために別の入り口に立った。ところが、予想外のことが起きる。長泉寺近くの西洋料理店燕楽軒の前で、福田が車から降りたのだ。それは待機していた和田のすぐ目の前だった。

 予期せぬできごとに和田は動転したのかも知れない。爆弾を投げるのではなく、拳銃で福田を狙撃した。隠れていた場所から飛び出し一気に駆け寄ると、福田の背中に銃口を押し当て引き金を引いたのだった。しかし、拳銃から何故か弾は出なかった。福田は軽いやけどを負っただけで、和田はその場で取り押さえられる。会場に潜入していた村木は周囲がにわかに騒がしくなったので事態を察し、現場に駆けつけた。しかし、既に燕楽軒の周りには厳重な警備体制が敷かれていて近付くことができず、その場を引き揚げざるを得なかった。

 



 

 和田久太郎は1893年兵庫県の明石に生まれた。生家は祖父の代までは豪商であったが、久太郎の父は浪費家で家庭は貧しかった。家族関係は非常に複雑で、いわゆる家庭の温かみを知らずに育ったようである。12歳で父の遠縁にあたるところに丁稚見習いに出され、14歳頃から株式仲買の仕事につく。遊蕩を覚え15、6歳で淋病、梅毒などの性病に罹患する。この病気は彼を生涯苦しめた。

 20歳の時、株取引に失敗して大変な損害を出してしまい、自殺を図るが未遂に終わる。放浪の旅に出て、社会の冷たさを知る。放浪から戻った後、堺利彦が刊行した雑誌「へちまの花」を読んで社会主義に目覚め、1916年、堺を頼って上京。売文社に出入りし、渡辺政太郎を紹介される。この頃渡辺は書店の南天堂の2階に住み、研究会を主宰していた。この研究会で同志となる村木や近藤憲二と出会う。1918年には大杉栄宅に住み込み、「文明批評」の発刊を手伝いながら久板卯之助と「労働新聞」を創刊した。

 和田は仲間たちから「ズボ久」と呼ばれていた。ズボラの久さんの略である。時々何もかも放り出して、ふらりと消えてしまうのだ。こうした性癖は労働運動を始めてからも変わらず、周りがその後始末に追われることもあった。それでも「また久さんのズボラだ」で許されたのは愛嬌があり、憎めない人物だったからだろう。正義感が強く、これと決めたことには人一倍熱心に取り組む面もあった。

 そんな彼が人生で一度きりの恋をしたのは1923年のことだ。持病の性病がひどく悪化し、栃木県の那須温泉に保養に行って、堀口直江という女性と出会った。堀口は浅草十二階下で身体を売る私娼だった。彼女も性病を患っており、保養に来ていたのだ。和田はそれまで放蕩はしても、女性と恋愛関係になったことはなかった。性病の持病があるので、遠慮する気持ちがあったのかも知れない。だが、堀口は同じ病を抱えており、かつ社会の底辺を這うようにして生きている女性でもあった。その点でも相通じるものがあったのだろう。二人は恋に落ち、東京に戻ってからも同棲する。

 しかし、幸せは長くは続かず、9月関東大震災が襲う。堀口が行方不明になった。必死になって探し、埼玉県の実家にいることを突き止め訪ねてみると、あろうことか彼女は納屋に放置されていた。梅毒が進行し重態なのに、布団も与えられていなかった。家族にとって、私娼に身をやつした娘など厄介者でしかなかったのだ。だが、それは彼女の責任なのか。

 連れ帰ろうとする和田に堀口は言った。「いいよ、どこへも行かないよ。放っといてくれ。あたしはここでこうして死んでやるんだ」

 堀口の言葉に和田は彼女の意地を見る。そしてその意思を尊重した。和田は一人で東京に帰り、やがて堀口は死んだ。

 福田を襲撃した時、和田は爆弾を女ものの手提げ袋に入れていたという。それは堀口のものではなかったか。

 

[参考文献]

松下竜一「久さん伝 あるアナキストの生涯」(講談社