お正月が明けて間もない週末、東京に行く用事があったのでついでに鎌倉に足を延ばしてきた。今回は個人的な旅行ではなく複数名での東京滞在だったが、1月24日の命日を前に、一人で村木源次郎の墓に手を合わせに行くこととした。
村木源次郎(1890~1925)は大杉栄や伊藤野枝の同志である。病身だったため運動の表舞台で活躍をすることはなかったが、多忙な野枝に代わり家事や育児を担ってその活動を支えた。山川菊栄は「おんな二代の記」の中で、村木のことをこのように回想している。
「鎌倉へ移ったのは大みそかの日で、駅につくと、あらい紺がすりの筒袖の着物の、短い裾から長いスネを出した大人と子供のあいのこのような人が、ニコニコして出迎えてくれました。色白で目の大きな、柔和な顔つきのこの青年は、村木源次郎氏」
「革命歌などをうたいながら掃除もきれいにすれば、食物ごしらえも上手、男のことで使い歩きも早く、親切な人で、子供や年寄り、病人の世話はお手のもの」
今でこそ男性も家事や育児をするのが当たり前となったが、100年前のことである。村木のことを「女がするようなことをしている」と馬鹿にする仲間もいたが、山川の回想にはそのようなニュアンスはみじんもなく、非常に好意的だ。
一方で、村木は家の中のことだけをしていたわけでもなかった。関東対震災の混乱のさなかで大杉と野枝、甥の橘宗一が憲兵隊により虐殺されると、仇討ちのために震災当時の戒厳軍司令官だった福田雅太郎陸軍大将の暗殺を企てた。しかし、計画は失敗し市谷刑務所に収監される。獄中で健康状態が著しく悪化、1925年1月24日に亡くなる。
墓は、JR鎌倉駅からほど近い本覚寺にある。私も供えるための花を持っていったが、命日が近いからか既にきれいな花が供えられていた。
村木は同志たちから「ご隠居」と呼ばれて親しまれていた。年長者のイメージがあるが、1885年生まれの大杉より5歳年少である。映画などでは口数の少ないニヒルなキャラクターとして描かれることが多いが、周囲の人間が伝えるエピソードや本人が書き遺した数少ない文章を読むと、飄々としてユーモアのある人だったのではないかとの印象を受ける。
大杉と野枝の子どもたち、とりわけ二人の間に生まれた最初の子どもである魔子(のちに眞子と改名)に愛情を注ぎ、子どもが喜びそうな童謡のような詩を書いたりしている。心優しく、他者のために尽力することを惜しまぬ人だった。
去年4月に村木の墓を訪ねた時の記事はこちら。
墓参りの後は小町通りの和・洋菓子舗「日影茶屋」で友人へのお土産を買う。ご存知、「日蔭茶屋事件」の日蔭(現・日影)茶屋が戦後に事業展開し、洋菓子屋やレストランを開店。このお店は鎌倉小町店。