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大逆ツアー 熊本編3.[大逆事件犠牲者顕彰碑 ~『熊本評論』と車夫たちの連帯~]

 大牟田と荒尾を回った後は、Oさんの運転で熊本県山鹿市に向かった。熊本県北部に位置する山鹿は、戦争中に空襲を免れたおかげで古い町並みが残る風情ある温泉地だ。去年11月に訪ねた高知県の中村(四万十市)は「土佐の小京都」だが、山鹿も「肥後の小京都」と称されている。

 松尾卯一太、新美卯一郎ら熊本の大逆事件犠牲者を顕彰する石碑は、市の中心地からほど近い本澄寺の敷地内に建てられている。2014年1月に有志によって建立されたものだ。

 

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大逆事件犠牲者顕彰碑

 

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 松尾や新美が中心になって創刊された「熊本評論」については、1.[大逆事件と熊本]で簡単に触れたが、「熊本評論」の果たした役割は単に言論に留まらない。

 明治も後期に入り、熊本でも乗合馬車が走り軽便鉄道が敷設されると、それまで主だった交通手段であった人力車の営業が圧迫されるようになった。もともと人力車夫業は、安定した職業ではない。「おかかえ」と呼ばれる富豪の自家用車夫や、自己所有の車を持つ「自営車輓き」なら月々一定の収入が得られるが、貸車業者から車を借りている「輓取り」や「輓子」の収入は不安定で、なおかつ様々な搾取を受けていた。それを裏付けるのが、番号札の価格問題である。

 熊本県では1908年2月1日から輓子の鑑札番号などを刻んだ札を、車夫が着る法被の背中に付けることが義務付けられた。これが車夫たちに知らされたのは、前日の1月31日である。番号札は人力車営業組合取締人に20銭を収めて受け取らなければならないという。ところが、熊本市以外では10銭で車夫たちに渡されていることが発覚する。にもかかわらず、翌2月1日までに前金を納めて札を受け取らなければ、仕事ができなくなってしまうのだ。

 怒った車夫たちは熊本評論社に新美卯一郎を訪ね、ことの次第を訴えた。新美は直ちに調査を開始し、問題の番号札の原価が6銭であることを突き止める。6銭の札に20銭を支払わせようとしたのだ。70人余の車夫有志が熊本市内の神社に集まり、協議した結果、不法な番号札の価格には応じないことと、このような不法を断行した営業組合惣代の辞職要求が決議される。この内、番号札の値下げ交渉は新美に任され、新美は半額に引き下げることに成功した。

 これに勢いを得た車夫たちは、新美の助言を受けながら営業組合の改革に乗り出す。営業組合の幹部である惣代や取締人は、選挙によって選ばれることになっているが、形式的なものであり貸車業者の寡占状態となっていた。附加金(組合費)は所有する車の台数によって額が決められており、たくさん所有するほど安くなるように設定されていた。車夫の大多数は1台所有するのみの零細業者であるのに、ここでも貸車業者や大規模業者が優遇されていたのだ。

 車夫たちは惣代の改選と附加金の改正を掲げて署名を集め、惣代の総辞職を申し入れた。選挙が行われ、惣代から貸車業者は一掃され、附加金の改訂が実現した。車夫たちの行動が実を結んだのだ。

 この間、「熊本評論」は一連の問題や車夫たちの動きを報道し続け、実際の行動をともにした。彼らはさらなる団結と人力車夫の地位向上のため、「熊本人力車夫同盟会」を立ち上げようとする。車夫の社会的地位は低く、番号札や附加金は問題の一部に過ぎなかった。

 1908年2月12日、熊本市内で同盟会結成のための集会を開くと、千人を超える車夫たちが詰めかけた。「熊本評論」は号外を発行して会場で配布し、新美と松尾卯一太、佐々木道元の兄・徳母などが演台に立ち熱弁をふるった。

 しかし、熊本評論社と車夫たちの連帯は6月22日、東京で赤旗事件が起きたことで中断されてしまう。事件に関連する記事を掲載し、収監された人々を救援するための募金を呼びかけたことで、「熊本評論」は新聞紙条例違反で発行禁止処分を受け、9月には廃刊に追い込まれる。

 この廃刊後に松尾が上京して平民社を訪ね、新たな新聞発行について幸徳秋水と相談をしたことが、のちに大逆事件に結びつけられた。新美と飛松与次郎、佐々木道元連座して逮捕、起訴され1911年1月24日、松尾と新美は処刑される。

 新美の死後、遺骨は親戚に引き取られた。白木の箱を抱えた親戚が熊本駅に到着すると、大勢の人力車夫が待っていた。皆で新美の遺骨を出迎え、泣きながら手を合わせたという。

 新美の墓は熊本市の小峯墓地にある。近い内に訪ねてみたい。

 

[参考文献]

上田穣一・岡本宏編著「大逆事件と『熊本評論』」(三一書房