三ノ輪と三河島をぶらりとする間に立ち寄ったのが、回向院だ。浄土宗の寺院である回向院は、東京に二ヶ所ある。一つは両国。両国回向院と呼ばれ、正称は諸宗山回向院。開創は1657年。元号でいうと明暦3年で、火事が多かった江戸でとりわけ大規模な火災となった明暦の大火が発生した年だ。
とにかく大変な惨事であり、焼失したのは江戸の町の実に約6割にも及ぶ。江戸城も西の丸をのぞいて、ほぼ焼け落ちている。死者の数には3万人から10万人まで諸説あるが、6万人くらいではないかと推定されている。当時の江戸の人口は約28万人。5~6人に1人が亡くなった計算になる。
この犠牲者を供養するために徳川家綱が万人塚という墳墓を作り、念仏を唱えるための御堂を立てたのが、両国回向院のはじまりだ。
もう一つの回向院があるのは南千住。今回、私が行った回向院はこちらで、1667年創建。過去には両国回向院の別院だったが、現在は独立。正称は豊国山回向院。小塚原回向院とも呼ばれている。かつてこの地には、鈴ヶ森とともに江戸の二大仕置場として知られる小塚原刑場があったのだ。
明治初年に廃止されるまでに、小塚原刑場では約20万人が処刑されたと伝えられている。遺体はろくに埋葬もされずに野犬などの獣に食い荒らされ、腐敗して臭気を放ちすさまじい惨状だったという。これに胸を痛めた両国回向院の住職が、別院を創建した。埋葬された中には歴史上名の知られた人物もおり、現在は墓地の一部が荒川区の史跡に指定されている。
墓地内の一番奥まった場所にあるが、たくさんの花や線香が供えられているのは、安政の大獄で処刑された吉田松陰の墓。もっとも、処刑の4年後に門下生であった高杉晋作や伊藤博文らの手によって、世田谷区若林、現在の松陰神社に改葬されているので、ここにあるのは文化財として保管されている当時の墓石だけだ。
印象深かったのは、桜田門外の変に連座した水戸藩士たちの墓が、ずらりと並んでいたこと。
「源達信士」と刻まれているのは、ご存知江戸のヒーロー、鼠小僧次郎吉。でも、盗んだお金を貧しい人たちに配っていたというのは、後世に創作されたフィクションだそうだ。がっかり。
一つおいた隣は高橋お伝。美貌を武器に男を手玉に取った毒婦のように伝えられているが、こちらもやはり史実ではない。実際にはやむを得ぬ事情から犯罪に手を染めたようである。女性が何かするとすぐに容姿を取りざたされ、勝手にセクシャルなイメージをつけられるのは、今も昔も変わらないのが腹立たしい。