旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

人身売買された宰相 高橋是清1.

 江戸東京たてもの園にて、高橋是清邸を見る機会があった。高橋是清は言うまでもなく、日本の首相にもなったことのある人物だ。たてもの園に保管されているのは、1902年に赤坂に建てられた家屋で、実はこの2階が二・二六事件の舞台である。

 二・二六事件が起きたのは1936年2月26日。陸軍の中の急進的な青年将校たちがクーデターを決行し、首相官邸、警視庁、新聞社や放送局を襲撃して要人を殺害した。この時殺害された一人が、当時大蔵大臣であった高橋是清だ。是清は財政立て直しのために軍事予算削減を行っており、軍部から恨みを買っていた。

 殺害を実行したのは近衛歩兵第三連隊の中橋基明中尉で、中島莞爾工兵少尉とともに、午前5時に高橋邸を襲撃した。中橋が正面玄関、中島が裏門から侵入し、玄関脇の部屋で寝ていた書生に銃をつきつけ、是清の寝室に案内をさせた。是清は騒ぎを聞きつけ目を覚ましたが、そのまま布団に横になっていたようである。中橋と中島が2階の寝室に駆け込むと、布団の中からグッとにらんだという。中橋は「天誅」と叫びながら是清めがけて銃を乱射し、その後に中島がさらに軍刀でめった切りにしている。

 是清はこの時、82歳だった。遺体は目を覆うようなひどい状態だったという。80を超えた人に対し、ここまで行う必要があったのだろうか。

 

江戸東京たてもの園高橋是清

 

 

二・二六事件の時、高橋是清が使っていた部屋

 

二間続きで、寝室、書斎として使っていた

 

 

 ところで、高橋是清邸の1階には是清の経歴などが展示されている。その中に、若い頃アメリカで人身売買されたとの説明があり、仰天した。詳しく知りたいと思い、「高橋是清自伝」を読んでみた。

 是清は1853年、幕府御用絵師であった川村庄右衛門、きん夫妻の子どもとして生まれた。生後わずか3、4日で仙台藩高橋家に里子に出される。2歳になった頃、菓子屋へ養子にやる話が出るのだが、「高橋の祖母」が「二年も育ててきたこの子を町人にやるのはかわいそうだ」と言ってこれに反対したため、高橋覚治の実子として届け出が出され、正式に高橋姓を名乗ることとなった。その後は芝愛宕下の仙台屋敷で育つ。

 自伝の前半には、この高橋の祖母が度々登場する。情の厚い人で、是清はこの人に非常に可愛がられたようだ。元治元(1864)年、英語を勉強するために横浜に行くことになった時も、祖母が一緒に行って身の回りの世話をしている。この4年前に、大老井伊直弼薩摩藩士に暗殺される桜田門外の変が起きており、是清曰く「幕府は名のみ存すれどもその威信は地に落ちて」「攘夷論者が非常に力を得て、外国人のいるところと見れば、どこでも切り込んでいく」ありさまだった。祖母は外国人の多い横浜で、是清が何か事件に巻き込まれはしないかと心配したのである。

 是清はアメリカ人医師ヘボンが開いたヘボン塾で英語を習ったのち、銀行支配人のシャンドという人にボーイとして雇われる。この頃はかなりやんちゃで、まだ13歳なのに馬丁たちと酒を飲み、ネズミを捕まえて焼いて食べたり、外国人の相手をする洋妾(ラシャメン)をからかったりしている。

 藩命でアメリカに留学するのは慶応3(1867)年、14歳の時だ。この時、祖母から餞別として短刀を渡され、「義のためや、恥をかいた時」に使うよう、切腹の方法を教わっている。今生の別れになるかも知れないという思いが、祖母にはあったのだろう。

 

[参考文献]

高橋是清 上塚司編「高橋是清自伝(上)」(中公文庫)

保阪正康「東京が震えた日 二・二六事件東京大空襲」(毎日新聞社