旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

「福田村事件」

 KBCシネマで、森達也監督の「福田村事件」を鑑賞。福田村事件とは、関東大震災の後、千葉県東葛飾郡福田村で起きた虐殺事件のことだ。讃岐から来た行商人の一行が、関東の人間にはなじみの薄い、聞きなれない方言で話していたために朝鮮人と間違えられ、妊婦や幼児を含む9人が殺されたという凄惨な事件である。

 日本人による日本人の虐殺を主軸としているが、劇中では日本人が朝鮮の人たちに対し、どれだけ差別と収奪を行ってきたかということが間断なく折りこまれている。特に、1919年に起きた提岩里(チョアムリ)教会事件が、日本映画の中で主要なできごととして取り上げられるのは、ほとんど初めてのことではないだろうか。映画の中では大まかにしか説明されず、主人公がしゃべる朝鮮語のセリフにも(意図的に)字幕はついていない。一体、彼が朝鮮で何を見たのかわからなかった観客も多いはずだ。是非、映画を観た後に自分で調べてみてほしいと思う。

 そのように意欲的な作品であると思うが、見ていて引っかかりを覚えるところがいくつかあった。

 私はヘイトスピーチへのカウンター行動を行っているので、過剰に意味付けをしているのかも知れないが、例えば行商人の一人が、殺される間際に「俺は何のために生まれて来たんだ」とつぶやく。虐殺される当事者に、あんな無残なセリフを言わせないでほしかった。

 実際に虐殺された人の中には「なぜ、自分が殺されなくてはならないんだ」と思いながら死んでいった人がたくさんいるだろう。だが、あの場面で問われるべきは、なぜ殺されるのかではなく、「なぜ殺すのか」ではないのか。理由を自問自答しなくてはならないのは、犠牲者ではなく、加害者ではないのか。さらには客席に座っている、マジョリティである私たちに、突き付けられる問いではないのか。私たちは殺さないと言えるのか?

 虐殺後、行商人たちがまぎれもなく日本人だとわかり、在郷軍人の一人が「国のため、村のためにやったのに・・・」と地面にへたりこむ。それを村の女性が「あんたはよくやった」と慰める。なぜ、そこで虐殺者に許しを与えるのだろう?私にはそれがマジョリティであることへの自覚の薄さに感じられ、非常に引っかかった。

 とはいえ、多くの人に観てほしい映画である。私は監督が、朝鮮人虐殺ではなく福田村事件を取り上げたのには、何か困難さがあるからかと勝手に思っていたのだが(出資者が集まらないとか、俳優にオファーを断られるとか)、そんなことはなく、オーディションには1000人を超える俳優が詰めかけたという。

 この映画を端緒として、同様の映画がどんどん作られるようになるといいと思う。福田村事件だけでなく、朝鮮人、中国人労働者の虐殺、亀戸事件なども正面から取り上げてほしい。