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追悼する人々と百年目の東京6.[王希天と中国人労働者たち]

 東京滞在最終日となる9月3日は、関東大震災中国人受難者を追悼する会主催で行われた、王希天(ワン・シーチェン)を追悼する集会に参加をした。

 王希天は1896年、吉林省長春の裕福な家に生まれた。1917年頃、留学生として渡日する。敬虔なクリスチャンで、いずれアメリカで神学を学ぶことを希望していたという。1923年9月1日の地震発生時は神田の在日中華基督教青年(中華YMCA)会館にいて、そのまま中国人留学生が多く住んでいる早稲田の下宿街に避難をしていた。ところが、「多数の中国人が殺された」との噂を聞き、真相を確かめるため、9月9日、南葛飾郡大島町(現・江東区大島)へと赴く。そこで憲兵に身柄を拘束され亀戸署に留置されたのち、12日明け方、逆井橋という橋のたもとで陸軍軍人に斬殺された。遺体は川に捨てられた。

 

王希天

 

 王希天はなぜ殺されたのだろうか。それには大島町という場所が大きく関係している。

 当時のこの地域は水路を利用した物流の拠点であり、工場が立ちならぶ工場地帯だった。そこでは日本の農村からの出稼ぎ労働者のみならず、中国人労働者が多数働いていた。ところが、第一次大戦後に景気が後退し始めると、日本政府は中国人労働者の取り締まりを強化する。中国人の居住や労働はもともと許可制ではあったが、好景気で労働力が必要な時には容認していたのに、不況になると取り締まり始めたのだ。外国人労働者を雇用の調整弁として都合よく扱うものだ。不況にあえぐ、日本人労働者の不満の矛先をそらす意味合いもあっただろう。

 苦境に追いやられた中国人労働者たちは、1922年9月、異国で連帯し助け合うため、互助組織「僑日共済会」を立ち上げる。その際に中心的な役割を果たし、会長を務めたのが王希天だった。  

 これを面白く思わないのは、仕事を斡旋する日本人の差配師(ブローカー)たちである。彼らにとって日本人よりずっと安い賃金で、重労働に従事する中国人は使い勝手のよい存在だった。団結などされては困るのだ。

 また、大島町は労働運動の盛んな地域でもあった。日本人の労働運動家たちが虐殺された亀戸事件の舞台となった亀戸署が管轄していたのが、まさにこの地域である。中国人労働者たちの動きにも、警察は当然監視の目を光らせていた。

 王希天が殺されたのは、一つには中国人労働者たちのリーダーである彼が、差配師や警察には目障りでうとましい存在であったこと。もう一つには、中国人虐殺の事実を隠蔽する意図があったのではないかと推察される。

 王希天が真相を探ろうとした、「多数の中国人が殺された」という噂は事実だった。中国人の大規模な虐殺が起きたのは9月3日。まずはこの日の朝、青年団から中国人を引き渡された軍人が、大島町8丁目の空き地で2人を殺害。次いで昼頃、軍、警察、青年団が「国に帰してやる」との口実で174人の中国人を宿舎から連れ出し、やはり8丁目の空き地でとび口、竹やり、日本刀などを持って襲いかかり、片っぱしから虐殺した。さらに15時頃にも200人ほどの中国人が殺害されている。これら遺体は焼かれたのち、近くの川に捨てられた。この頃はまだ、地震後の火災で焼け死んだ人たちの遺体が、びっしりと川に浮かんでいた。

 

大島八丁目

 

逆井橋

 中国人労働者たちが虐殺されたのは、互助組織を結成するなど、彼らが差配師の手にあまるようになったこと、「治安」を管理する警察にも忌々しく思われていたことなどが考えられる。加えて、日本政府が取り締りを強化し、日本人の不満のはけ口として利用していたことも無関係ではないだろう。中国人を自分たちの仕事を奪うものとして敵視し、排除したいとの気持ちが一般の人たちの間にもあったから、軍や警察と一緒になって襲いかかった。

 政府が外国人への敵意をあおり、警察が犯罪者予備軍として監視し、人々もこれに同調する。ゾッとするほど現代と似ているではないか。

 

[参考文献]

田原洋「関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する」(岩波書店

加藤直樹「九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響」(ころから)