旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

特に目的のない旅6.[神奈川県立図書館と山川菊栄]

 横浜にある神奈川県立図書館には、「山川菊栄文庫」がある。和書約4300冊、洋書約890冊のほか、直筆原稿や書簡、写真、新聞・雑誌の記事、タイプライターなどの愛用品など、多数の資料が納められているという。もっとも普段は一般公開はしておらず、見ることはできない。だが、館内には山川菊栄の書棚があり、直筆などの資料が展示され、菊栄の功績を紹介する動画が上映されていた。予想していたより、ずっと大きな扱いがうれしい。
 書棚には、以前から気になっていた「イヌとからすとうずらとペンと 山川菊栄・山川均写真集」もあったので、手に取ってみた。この本については、なぜ「写真集」なのだろうと不思議に思っていたのだが、パラパラとめくってみて納得。菊栄も夫の均もたくさんの文章を書き残しているが、本人たちの手による文章とはまた異なる、二人の横顔を伝えてくるような本になっている。
 初めて見る写真がたくさん収められているが、中に何枚か気になる写真があった。1枚は自宅の前で、菊栄と母親の千世が並んで写っているもの。1930年5月の撮影で、菊栄は39歳、千世は73歳。初夏らしく、二人の後ろにはバラが咲いている。竹ボウキを持った千世はキリッとした表情でこちらを見ており、背筋もピンと伸びていて若々しい。
 一方の菊栄は日差しがまぶしいのか、しかめっ面。ワンピースのようなダランとした服を着ており、足もとは下駄ばき。きどらない1枚であるが、堂々とした千世と比べ、菊栄はやや伏し目がち。ほおも背中も丸く、正直39歳という実年齢より老けてみえる。
 山川菊栄といえば、眼鏡をかけた着物姿でななめのアングルから撮った写真が有名だ。あの写真は1920年のものである。自宅前で母と写っている写真はそれから10年後のものなのだが、キャプションがなければもっとのちのものだと思うかも知れない。
 この10年の間に、菊栄は日本初の女性社会主義者の団体「赤瀾会」を立ち上げるも、度重なる会員の検束や投獄により会は自然消滅。関東大震災の混乱にまぎれ官憲に虐殺された大杉栄伊藤野枝、亀戸事件の川合義虎はじめ、同志や友人が次々と命を落としたり、運動から離脱したりしていく。力を合わせなくてはいけなのに、路線の違いによる内部での対立があり、夫の均が糾弾される。加えて自身の健康状態もおもわしくなく、息子の振作も度々病床についた。「社会主義者に家は貸せない」と言われ、転居を繰り返した。
 39歳の菊栄が自宅前で撮った写真には、そのような苦難がにじんでいるように感じられる。
 しかし、戦後に撮られた写真を見ると、また印象が変わってくる。「戦後間もないころ」とだけキャプションのついた、買い物かごとこうもり傘を持って街を歩いている1枚がある。50代半ばと思われる菊栄はまっすぐに前を向き、キュッと口を引き結んでいる。なにげなく撮った1枚なのだろうが、表情に張りがある。これ以降、1950年代60年代の労働運動に復帰してからの菊栄の写真は、どれも顔を上げ、正面を向いているものが多い。激動の時代に決して節を曲げず、意志を透徹してきた人の力強さがある。
 菊栄は1980年11月2日、90歳になる誕生日の前日に亡くなった。晩年は歩行がままならず、ベッドで過ごすことが多かった。写真集には最晩年のものと思われる、ベッドに仰向けに寝て新聞を読んでいる菊栄の写真が収められている。年齢的に耳や目も遠くなっていたのではないかと推察するが、その表情は真剣である。身体の自由はきかなくなっても、菊栄のまなざしは依然社会へと向いていた。これなどはやはり写真でなければ伝わらないことだ。

 

[参考文献]
山川菊栄記念会・労働者運動資料室編「イヌとからすとうずらとペンと 山川菊栄・山川均写真集」(同時代社)
森まゆみ「暗い時代の人々」(亜紀書房