旅と映画

行ったところと観た映画の個人的な記録

人身売買された宰相 高橋是清2.

 慶応3(1867)年、アメリカに留学した14歳の高橋是清は、まずサンフランシスコでヴァンリードという老夫婦の家に世話になることとなった。老夫婦は最初こそ歓待してくれたものの、是清に料理の手伝いや部屋の掃除、使い走りなどの下働きをさせ始める。勉強をしにきたのに、学校に行くこともできない。憤慨した是清は労働をボイコットする。そうしたところ、今度はオークランドのブラウンという夫婦の家にやられることとなった。

 この時、ヴァンリードに公証役場に連れていかれ、書類へのサインを求められた。英語で書かれているので内容がよくわからないが、ヴァンリードが「オークランドのブラウン家に住み込めば、学問ができる」というので、さして疑いも持たずサインした。果たしてこれが、人身売買の契約書だった。是清は3年の労働契約で、ブラウン家へ売られてしまったのである。

 ブラウン家には家主である若い夫婦のほか、中国人とアイルランド人の夫婦が働いていた。是清が家に来てから間もなく、夫人は女の子を出産し、赤ん坊好きの是清は熱心にこの子の世話を行っている。部屋の掃除やまき割りなどもさせられたが、ヴァンリード家にいた頃よりは勉強をする時間があり、週末は馬に乗って草原を駆け回るなど、自伝を読む限りではそれなりに楽しく、充実した生活だったようである。

 しかし、一見アメリカでの生活を謳歌しているように見えても、売られた身の上だ。ある時、些細なきっかけから中国人といさかいを起こした是清は、ブラウンに「暇をもらいたい」と申し出る。だが、「勝手に暇を取らすわけにはいかない。お前の身体は三年間は金を出して買ってある」と言われ、仰天する。ここに至って初めて是清は、自分が「売られていた」ことを知ったのだ。

 困った是清は、一計を案じる。わざと乱暴な行動をしてブラウン夫妻を困らせ、向こうから暇を出させるように仕向けたのだ。しかし、夫妻は是清が乱暴をしても、「そんなことをしてはいけない」と優しく教えさとすばかりだ。

 困惑している内に、ブラウンの父親という人が、大勢の使用人を引きつれてワシントンからやってきた。使用人の中には是清と同年代の子どももおり、この子らと仲よくなった是清は2ヶ月ばかり楽しく遊び暮らす。間もなくブラウン夫妻は父親とともに中国に行くこととなり、是清は今度はサンフランシスコのブラウンの親戚の家にやられることになった。

 これを見かねた留学生仲間が、「今行けば、また三年間はその家にいなければいけなくなるぞ」と、是清を引き留めた。それで行かずにいたところ、先方も迎えに来るでもなく、そのままになったという。この頃既にアメリカでは奴隷の売買が禁止されていたので、相手も強く出ることができなかったのだろうと説明されている。

 

 本人の自伝を読むとのんびりとした印象を受けるが、外国でまだ10代の少年が人身売買の被害にあうというのは大変なことである。そこで、アジア人の人身売買について調べてみた。

 国内から海外に奴隷として売られていく人々は、日本では戦国時代から存在していた。16世紀から17世紀にかけては、ポルトガル商人により南蛮貿易を通じて、日本人だけでなくインド人、中国人、フィリピン人、その他東南アジア諸地域のアジア人が、奴隷として渡航している。行き先はマカオ、フィリピン、ゴア、メキシコ、ペルー、アルゼンチン、ポルトガル、スペインなど多岐に渡ったようだ。

 日本人に限っていえば、これらの人々は国内での戦争の際に敵方に捕らえられた戦争捕虜、親に売られたり誘拐されたりした子どもが多かったようである。自分が「奴隷として売られた」とは考えておらず、本人たちは「年季奉公」のような感覚でいた可能性があるという。貧困から逃れるため、自ら身売りして海外を目指す人もいた。

 こうした人たちの中には、「年季」が明けて自由の身となる奴隷もいたが、外国で生計を立てていくことは難しく、犯罪に手を染めるものや、女性の場合、身体を売らざるを得ないこともあった。もっと悲惨なのは高齢になった奴隷で、病気で働けなくなったため道に捨てられたり、主人から自死を命じられることすらあったようだ。

 時代が違うので単純に比較はできないが、是清がひどい虐待を受けることなく、無事日本に帰国できたのは幸いなことだ。祖母もさぞ、安堵したことだろう。

 

[参考文献]

高橋是清 上塚司編「高橋是清自伝(上)」(中公文庫)

ルシオ・デ・ソウザ 岡美穂子「大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ」(中公叢書)